★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

俊寛の生きざま

2019-09-20 23:26:45 | 文学


「いかにも叶ひ候ふまじ」
とて、取り付き給ひつる手を引きのけて、船をばつひに漕ぎ出す。僧都せん方なさに、渚に上がり倒れ伏し、幼き者の乳母や母などを慕ふやうに、足摺りをして、
「これ、乗せて行け。具して行け」
とのたまひて、をめき叫び給へども、漕ぎ行く船の習ひにて、跡は白波ばかりなり。


俊寛は清盛にとっては絶対に許せない裏切り者であって恩赦のメンバーから漏れていた。絶望の余り、沖に出て行く舟に縋り付き、幼児が乳母や母を慕うように足をばたつかせて叫ぶのであった。こういう描き方は容赦がないが、希望が反転した絶望が襲ったときには、こういう態度に体が自然に変容してしまうのである。しかし我々はこういうエピソードに黙っていられない性になっており、さまざまな文士が違う現実もあるよ、と書き直しているのはよく知られている。全く余分なことしやがって……

少将は人畜生じゃ。康頼もそれを見ているのは、仏弟子の所業とも思われぬ。おまけにあの女を乗せる事は、おれのほかに誰も頼まなかった。――おれはそう思うたら、今でも不思議な気がするくらい、ありとあらゆる罵詈讒謗が、口を衝いて溢れて来た。もっともおれの使ったのは、京童の云う悪口ではない。八万法蔵十二部経中の悪鬼羅刹の名前ばかり、矢つぎ早に浴びせたのじゃ。が、船は見る見る遠ざかってしまう。あの女はやはり泣き伏したままじゃ。おれは浜べにじだんだを踏みながら、返せ返せと手招ぎをした。」

芥川龍之介の口の悪さはひでえのう……。「八万法蔵十二部経中の悪鬼羅刹の名前ばかり、矢つぎ早に浴びせたのじゃ」って、ここに至って自慢かよ。しかし悟りを求めるオタクというのは案外こんな感じで、実際戦争になっても、ガンダムのことを考えている可能性は高い。

結婚してからすぐ、俊寛は、妻に大和言葉を教えはじめた。三月経ち四月経つうちには、日常の会話には、ことを欠かなかった。蔓草のさねかずらをした妻が、閑雅な都言葉を口にすることは、俊寛にとって、この上もない楽しみであった。言葉を一通り覚えてしまうと、俊寛は、よく妻を砂浜へ連れて行って、字を書くことを教えた。浅香山の歌を幾度となく砂の上に書き示した。
 妻は、その年のうちに、妊娠した。こうした生活をする俊寛にとって、子供ができるということは普通人の想像も及ばない喜びだった。俊寛は、身重くなった妻を嘗めるように、いたわるのであった。翌年の春に、妻は玉のような男の子を産んだ。子供ができてからの俊寛の幸福は、以前の二倍も三倍にもなった。


菊池先生、こういうのを文化侵略といいましてね、――はい、戦犯認定!

俊寛 助けてくれ! わしを一人残すほどなら、むしろわしを殺してくれ。
  答えなし、船退場。
俊寛 ただ九州の地まで。一生の願いだ。そしたら海の中に投げ込んで殺してくれてもいい。
  答えなし。
俊寛 (水ぎわを伝って走る)船を戻せ! わしを助けてくれ。
  答えなし。
俊寛 (丘の上にはい登り沖をさしまねく)おーい、康頼殿。
  沖より呼ばわる声聞こゆ。
俊寛 船を戻せ! 船を戻せ!
  沖より銅鑼の音響く。
俊寛 船を戻せ! 船を戻せ!
  答えなし。
俊寛 (衣を引き裂く。狂うごとく打ちふる)おーい。康頼殿。
  答えなし。この時雷のとどろくごとく山の鳴動聞こゆ。
俊寛 (ふるえる)助けてくれ!
  答えなし。
俊寛 (絶望的に)だめだ! (地に倒れる。立ち上がる)鬼だ。畜生だ。お前らは帰れ。帰って清盛にこびへつらえ、仇敵の前にひざまずいてあわれみを受  けい。わしは最後まで勇士としてただ一人この島に残るぞ。この島で飢えて死ぬるぞ。


なんだか根性のあるのは倉田先生のやつに思えてきました。最初のせりふなんか、「痴人の愛」の讓治のせりふとそっくりです。彼の気合いで山まで動いて居るわけで、すごすぎます。しかし倉田先生、このひとはあまりに人生に悩みすぎて、案外基礎知識というものを忘れ、九州の島と言えば火山だと思い込んでいるのではないでしょうか。これはいけません。高村光太郎も「新しき土」の作者も、日本は火の国だと思い込んでおります。俊寛が清盛を恨んで死んでも唯の犬死にです。だいたい、あとで源氏が勝つとは限らない訳で、火の国で興奮していた人の期待は裏切られ、大爆弾を落とされて降参ではねえか。

今日はゼミで、菊池寛の「偶像破壊」好きの側面について考えたが、本当は偶像破壊ではなくて彼の場合は破壊が好きなのであった。破壊が好きな人は、急に愛に目覚めたりすることがある。わたくしは『平家物語』の語り手もどこか破壊好きの代わりに愛に目覚めたりあはれに目覚めたりしがちだと思うのである。それは例えば、最近読んだ、将基面貴巳氏の『愛国の構造』などでは扱われていない構造の問題である。