★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

恥と検覈

2019-09-25 23:20:50 | 文学


『ただ今ここを渡さずは、長き弓矢の傷なるべし。水に溺れても死なば死ね、いざ渡さう』とて、馬筏を作つて、渡せばこそ渡しけめ。坂東武者の習ひ、敵を目にかけ、川を隔てたる戦に、淵瀬嫌ふやうやある。この川の深さ速さ、利根川にいくほどの劣り勝りはよもあらじ。続けや殿ばら」とて、真つ先にこそうち入れたれ。

こうみんなをたきつけて先頭切ったのは、下野の十七歳、足利又太郎忠綱である。『ただ今ここを渡さずは、長き弓矢の傷なるべし』(いまここをあたらなければ、末代までの武士の恥だ)というようなせりふを吐けるのは案外若者である。末代までの恥というような長い時間を想定できるのは、実際に未来に長い時間を持つからではなかろうかと思うのである。我々の周囲を見てみると、自分の未来が短くなると、恥をかいてもかまわないという、自分の快感に集中する者が多くなるように思う。恥はかいても先がないので関係ないのだ。で、未来のある若者をいじめて、「いまのままじゃだめだ」と叱咤する。素直な若者はそれをきき、自分の時間を細切れにPDCAサイクルみたいにしてしまうのだ。そこには、小さい恥を乗り越えていく小さい精神しかない。――いまここでやらねば長い時間恥をさらして生きなければならない、だからこそいまやらなければならない、とそういう若者は悲惨にも思うのであった。

「あなた方は希望を求めて私たち若者のところにやってくる。よくもそんなことができますね」、「私たちは大絶滅の始まりにいる。それなのに、あなた方が話すことと言えば、お金や永続的な経済成長というおとぎ話ばかりだ。よくもそんなことを!」

今話題のトゥンベリさん(十六歳)のスピーチでこういうくだりがあった。「How dare you!(よくもそんなことを!)」を「恥を知りなさい!」と訳していたテレビもあった。わたくしがこの演説をテレビでみたのは、WBSという経済番組だったので、ちょっと笑ってしまったが、――それはともかく、彼女は、大人たちが自分で何せず子どもに「希望を求めたり」、希望的観測の経済発展の「おとぎ話」をしていることを糾弾しているのであり、希望や経済を否定しているのではない。中高生だって、大人がほとんど真面目にやってないことを知っているし、大人だからこそ分かる事情なんかが案外少ないことも知っている。しっかりしなさい、不真面目にごまかすのはやめなさい、と言っているに過ぎないのである。トゥンベリさんは、世界中にいる。

ただ、我々の世界は、我々の推測をはるかに超えて狂っている。トゥンベリさんはある程度世界の若者・子ども達を背負っている。が、――誰もが成人を過ぎた頃になると、自分自身を背負っているのが辛くなる(自分の予想を超えた狂いかたを目撃するからである。)故に、無理に背負おうとして、自分を忘れるほどの大きな信仰や科学やイデオロギーで武装することがあり得るのである。このまえ何とかいうクズ議員が「恥を知りなさい」とか演説していたような気がするが、あれはそれであろう。――自分が恥を自覚するほどの主体は実は消滅しているのだが、八紘一宇という文字主体に比べると、相手の恥じ入る主体が矮小に見えるにすぎない。要するに、ウルトラマンがビルよりでかいのですごいといっている餓鬼と同レベルの精神に戻ってしまっているのである。おまえが恥を知れ。

先日、ドイツ哲学の研究者とも雑談したことだが、環境問題が難しいのは、その「哲学」の確立に失敗していることだ。例えば、「もののけ姫」などもそうで、最後に「ただ生きろ」みたいなところに話がおちてしまうことにその失敗が現れている。この時期の「エヴァンゲリオン」も聖書仕立ての話の結論が「生きろ」だった。もはや本当は地球レベルでの破滅からの回避は、我々が「死ぬ」ことでなされるのではないかという予感に導かれている二作であった。掲示板その他で人々が「死ね氏ね」言っていたのも、それが合理的だみたいな感覚があるからなのであろう。廣松渉が『近代の超克』論の最後で、

もはや思想史的検覈の与件ではなくして将来的な負荷である。


といったのは、環境問題の場合、はじめから「もはや」をとった形で考えなければならない側面がある。