★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

いと高きところに習合あれ

2020-02-06 23:01:29 | 文学


三浦常夫(尾高根太郎)の「いと高きところに栄光神あれ」は小文であるが、なかなかのもんで、「るしふえる」の堕落を持たざるを得ない基督教を西田哲学風の理屈を軽妙に使って大乗仏教を持ち上げておる。勢い余って「阿呍阿教」とか例の「生長の家」の教義にまで言及し、「聖徳太子、また聖武天皇の御精神が今日に花開く」とかなんとか言っている。

「日本の古神道と大乗仏典の美しい混血児」を望む三浦は、「いと高きところに栄光、神にあれと僕は絶叫して止まないのである」と絶叫している。最後はルカ伝かよ……

思うに、まだ絶叫するのははやいのではなかろうか、とは思うのだが、そこをとったら彼らはただの文人になってしまう。日本浪曼派のこのような大仰さは馬鹿にされてきたところだけれども、この人たちもある種の神仏習合のリニューアルをやろうとしていたわけである。そのエンジンは独逸経由のそれであるところが妙に面白い、というかある種、その習合がカトリック的な大仰さに移行しがちだったのである。その点、戦後の保田▼重郎や小林秀雄、花田★輝や吉◎隆明にいたるまで、どこをどうしたらというところで迷っていた気がする。問題自体は続いていると思うのである。――というより、わたくしはまだ彼らの迷いから先へ続けるのがよいと思うのである。

そうでないと、上の「生長の家」などの新興宗教が社会の中で孤立して暴発する怖れがある。昨今の自民党の独裁者問題、オウム事件、昨今の「道徳」の国家からの強制問題、などなどはすべて同じ現象なのである。社会の中から特に仏教的倫理と素養が蒸発してしまい、代替の近代文学なんかも機能を失った、その砂漠からの絶叫(笑)がその現象だ。

どうにかせねばと思うのだが――その障害になってるのが、あまりにわれわれが思想的に休止していたためか、日本の社会が崩壊してしまい、――その惨状を嫌悪感をもってしか見られなくなってしまったことである。これはアメリカナイズに対するものでない。アメリカというものは「思想」ではなかった。アメリカがもっと強烈な文物であったなら、われわれはもう少し習合を試みたはずだ。しかし来たのは原爆とコカコーラだったのである。