★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2020-02-22 19:32:38 | 文学


ものなど問はせ給ひ、のたまはするに、久しうなりぬれば、
「下りまほしうなりにたらむ。さらば、はや。夜さりは、とく。」
と仰せらる。
ゐざり帰るにや遅きと、上げちらしたるに、雪降りにけり。登華殿の御前は、立蔀近くてせばし。雪いとをかし。


ここでの「いとをかし」には実感がある。「雪降りにけり」だけではいけなかったのである。宮にはじめて参った頃、定子に「局にさがりたくなったのでしょう?ならばすぐにお下がり。夜になったら早く来てね」といわれ、膝行して御前から隠れるやいなや女房たちが無造作に局の格子をあげたところ、雪が降っていた。この雪のすばらしさは、なんとなく、定子と清少納言のふたりに降りかかっている気がするなあ……。

日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聽
香爐峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍爲送老官
心泰身寧是歸處
故郷何獨在長安


二八〇段の、こうろほうのゆきいかならん、で有名な白居易の詩である。わたくしも大学入試の時、雪をかき分けて受験会場にたどり着いた。今はやりの居場所ではなく、行かなければならない場所に向かうとき、雪は殊更心の中で降る気がする。長安が故郷である必要はないのは当然だとしても、心が安まるところが本当の帰るところだと白居易が本気で考えていたとは思えない。彼もまた旅に出てしまっているのである。わたくしは、清少納言も定子も本当はそこまで分かっていて、雪を眺めていたのではないかと思う。わたくしは、彼らの知性をあまり低く見ない方がよいと思うのである。彼らだって、自分たちが不安定な場所にいることは分かっているはずではないか。

彼女は赤い眶を擡げ、彼女の吐いた煙の輪にぢつと目を注いでゐた。それからやはり空中を見たまま、誰にともなしにこんなことを言つた。――
「それは肌も同じだわね。あたしもこの商売を始めてから、すつかり肌を荒してしまつたもの。……」
 或冬曇りの午後、わたしは中央線の汽車の窓に一列の山脈を眺めてゐた。山脈は勿論まつ白だつた。が、それは雪と言ふよりも人間の鮫肌に近い色をしてゐた。わたしはかう言ふ山脈を見ながら、ふとあのモデルを思ひ出した、あの一本も睫毛のない、混血児じみた日本の娘さんを。


――芥川龍之介「雪」


さんざいわれていることであるが、近代における内面というのは、外部を消失している。これは文学者というより、学校で創られる近代人間の特徴だ。ある種、外部からの刺激を直に受け付けないような、心を失った状態なのである。逆に、芥川などの鋭敏な人間は、内面がぶっ壊れている。隙間からどんどん刺激が入ってきてしまうのだ。