
ふと私は自分の脳に何か暗い影が横切るやうな気持だつたが、恰度そこへSが帰つて来た。それで話はすぐ他の話題に移つて行つた。が、暫くすると、Sもやはり脳のなかにある白い繭のことから余程シヨツクをうけてゐるらしく、不安な顔つきで奇怪な病気のことを云ひだした。それは私がSの細君から聞いた筋と同じだつたが、その病気がエヒモコツクスという寄生虫のためらしいこと、普通その寄生虫は警魚といふ中国の魚にゐて刺身などから感染すること、人体にとりつくと全身いたるところに切傷のやうな傷跡を発生するが、それが脳にまで侵入することは全く稀有のことらしい、とSは新しい註釈をつけ加へた。
「その山宮泉は昔、芥川龍之介論で『歯車』のことを書いていて、人間の脳の襞を無数の蝨が喰ひ荒らしてゆく幻想をとりあげてゐるのだが……」と、Sは何か暗合のおそろしさをおもふやうな顔つきをした。
――原民喜「二つの死」
「赤い繭」は教科書に載せられたが、こちらの方はどうだったのであろう……