★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

うつくしきもの――遠く離れて

2020-02-15 21:22:56 | 文学


うつくしきもの、瓜に書きたる児の顔。 雀の子の、ねず鳴きするにをどり来る。二つ三つばかりなる児の、急ぎてはひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。
頭は尼そぎなる児の、目に髪のおほへるをかきはやらで、うちかたぶきてものなど見たるも、うつくし。
大きにはあらぬ殿上童の、さうぞき立てられてありくもうつくし。をかしげなる児の、あからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。
雛の調度。 蓮の浮き葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。何も何も、小さきものはみなうつくし。
いみじう白く肥えたる児の二つばかりなるが、二藍の薄物など、衣長にてたすき結ひたるがはひ出でたるも、また、短きが袖がちなる着てありくも、みなうつくし。 八つ、九つ、十ばかりなどの男児の、声は幼げにて文読みたる、いとうつくし。
鶏の雛の足高に、白うをかしげに、衣短なるさまして、ひよひよとかしがましう鳴きて、人のしりさきに立ちてありくもをかし。また、親の共に連れて立ちて走るも、みなうつくし。 かりのこ。瑠璃の壺。


瓜に描いた子どもの顔はかわいいと思う。雀の子がちゅっちゅっと言うと跳ねてくるのもかわいいと思う。最近、わたくしも雀がわたくしの原付の上に座っているのを見て泣きそうになった。わたくしは幼稚園の時、庭の花を幼稚園の先生にあげた。上の餓鬼は小さい塵をみつけて大人に見せている。清少納言はかわいいというが、この餓鬼は大人になっても塵と仲良くなるような下品な輩であろう。つづく、子どもたちは特にかわいくもなんともない。どうせ、わたくしの頭をはたいて喜んでいるような乱暴な奴らであろう。8、9、10歳の子が、声幼げで漢文など読んでいるのは、とってもかわ――いくない。教育実習にいってみればよい、とくにかわいくないぞ。声色なんか使いおって、もっと普通によめないのかっ。内面のない人間の朗読なんて聞けたもんじゃない。

最後は雛とかがかわいい。人のまわりで鳴きまくるとはよい根性をしていると思うが、――清少納言もなんだか禽獣に好かれる感じの人であったに違いない。わたくしも幼稚園に行くと大人気だ。たぶん、アンパンマンだと思っているのではないか、丸い物に反応しているのではないかというのが細君の意見だが、断然違うと思う。

「かりのこ。瑠璃の壺。」……人間から遠く離れたな……。

「まあ、可哀いことね」と縹色のお嬢さんのささやくのが聞えた。
 小鳥のようなフリイダが帰って、親鳥の失敗詩人が来る。それも帰る。そこへ昔命に懸けて愛した男を、冷酷なきょうだいに夫にせられて、不治の病に体のしんに食い込まれているエルラが、燭を秉って老いたる恋人の檻に這入って来る。妻になったという優勝の地位の象徴ででもあるように、大きい巾を頭に巻き附けた夫人グンヒルドが、扉の外で立聞をして、恐ろしい幻のように、現れて又消える。爪牙の鈍った狼のたゆたうのを、大きい愛の力で励まして、エルラはその幻の洞窟たる階下の室に連れて行こうとすると、幕が下りる。


――鷗外「青年」


鷗外なんかは、心の中でいつも人間に付いたり遠く離れたりを繰り返している。さすがである。