★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

疫病・幽霊

2020-02-14 23:29:11 | 文学


胸つぶるるもの 競馬見る。元結よる。親などの、心地あしとて、例ならぬけしきなる。まして、世の中など騒がしと聞ゆるころは、よろづの事おぼえず。

親などが気分が悪いと普通でない様子の時、まして、世の中に疫病がはやっているときには何も手に付かない。

疫病は目に見えないので、なにかそれを表象する物が代わりに想像されてきた。それが文化の発展と関係があったのは言うまでもない。結核、エイズ、の段階に至ってもそうであった。本当は、コンピュターウイルスもそうなのだ。もっとも、目に見えないが、これはだれかがつくったことは確かだ。よって、疫病が人類の敵であったのと同じく、人類が人類の敵になったのである。最近のよのなかの憎しみあいは、コンピュターウイルスに対する文化的解消なのである。

――かどうかは知らないが、我々は目に見えないものの代替物として人間そのものを見るようになったので、ときどき、気の利いた人が、人間そのものが「幽霊」なのではないかと立論している。マルクスの言う意味を越えて、われわれは人間を幽霊と見なすような段階に入った。

今日、マーク・フィッシャーの『我が人生の幽霊たち』が届いたので、そんなことを思ったのである。

写真で御承知であらうが、南洋辺の土人の祭りでは、人間が恐しい巨人の扮装をする。これは信仰の意味を豊かに持つ。日本でも、南方にはこの風習が残つて居る。北へ行くほど人形がおとなしくなる。
この巨人の人形は、村を訪問して来た神を指す。これを踊り神と称して、人々も一緒に踊る。言ひ換へれば踊り祭りの中心になるのである。人間が仮装してもよし、自由に動かし得れば人形でもよい訣である。旧日本の踊りでは、やつてきた巨人は為方がないから、歓迎するやうにして追ひ出すと言ふ形式が習ひになつてゐる。踊りに捲き込んで快く出るやうにする。後になれば、風の神や疱瘡神の機嫌をとつて送り出すのだが、昔は善悪の神を問はず、共通の送迎の為方があつたのである。


――折口信夫「人形の起源」


機嫌をとって送り出すことは、むろん、踊っている本人たちのパニックを鎮める効果もあったんじゃないかと思う。いまはこれは難しい。科学で人の心を静めるのは簡単ではないのである。