九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の、今朝はやみて、朝日いとけざやかにさしいでたるに、前栽の露、こぼるばかり置きわたりたるも、いとをかし。透垣の羅文、軒の上に、かいたる蜘蛛の巣のこぼれ残りたるに、雨のかかりたるが、白き玉を貫きたるやうなるこそ、いみじうあはれにをかしけれ。
少し日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに、枝のうち動きて、人も手触れぬに、ふと上ざまへあがりたるも、いみじうをかし、と言ひたることどもの、人の心にはつゆをかしからじ、と思ふこそ、またをかしけれ。
最後に、「露が落ちると、枝が動いて、人の手も触れないのに、さっと上へ跳ね上がのもとても面白い、と言っていることが、他の人にはつゆ(全く)面白くあるまいなあと、思うのがまた面白い。」と言ってるのが、清少納言である。露とつゆを掛けているのであるが、自慢にレトリックを使うととてもいやな感じになるのは、思い上がっている学者の謝辞とかに案外ある。すべてを自己顕示に持っていってしまうような症状的クズの増殖が止まらない。
最近のフランシス・フクヤマの本(「アイデンティティ」)でも、言っていた気がするんだが(フランシス・フクヤマはまたみんなが言おうとしていることをいうみたいな態度である。歴史は終わったんでなかったの?)、――所謂「気概」(テューモス)がギリシャからタイムマシンに乗って現代でまた復活しようとしている気がする。むろんオリガーキー(寡頭制)に移行しようとする動きと連動しているわけである。これは三島由紀夫の語る「葉隠」の忍ぶ恋=忠誠心のようなもんであるが、それを語るのは三島がかわいそうな弱い人間に同情的だからである。忍ぶ恋のようなところに魂の座をみているから三島はそんなことを言っているんだろうと思うのだ。
エネルギーはあっても、もっとどうしようもない人間がいる。結局、三島のクーデターは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のタネン批判を秘めていなければ使えないのではなかろうか。
テューモスと戦うことは難しい。何であれ欲するところのものを魂を引き換えに購おうとするからである。
――ヘライクレイトス断片85