むとくなるもの 潮干の潟にをる大船。大きなる木の、風に吹き倒されて根をささげて横たはれ伏せる。えせ者の、従者かうがへたる。人の妻などの、すずろなるもの怨じなどして隠れたらむを、かならず尋ね騒がむものぞと思ひたるに、さしもあらず、ねたげにもてなしたるに、さてもえ旅だちゐたらねば、心と出で来たる。
傷心の妻が倒木とおんなじかよと思うけれども、そこがいつもの清少納言である。
でも「心と出で来たる」というのが、まさに心の出現というかんじでおもしろいのではないだろうか。「すずろなるもの怨じ」(むやみな嫉妬)なんかはまだ「心」の作用とは言えないのである。これを間違うと、以下のようになる。
明日の我々の文学は、明らかに表現の誇張へ向って進展するに相違ない。まだ時代は曾てその本望として、誇張の文学を要求したことがない。そうして、今や最も時代の要求すべきものは、誇張である。脅迫である。熱情である。嘘である。何故なら、これらは分裂を統率する最も壮大な音律であるからだ。何物よりも真実を高く捧げてはならない。時代は最早やあまり真実に食傷した。かくして、自然主義は苦き真実の過食のために、其尨大な姿を地に倒した。嘘ほど美味なものはなくなった。嘘を蹴落す存在から、もし文学が嘘を加護する守神となって現れたとき、かの大いなる酒神は世紀の祭殿に輝き出すであろう。
――横光利一「黙示のページ」
わたくしは昔これを読んでなるほどとか思っていた。こんな振り子は心の作用ではない。心理の作用である。後者は解析できるが、前者は物語の中で現れる。後者がないと、清少納言だと、妻は恥ずかしげもなく逆ギレなんかを起こすか、うじうじと何事もなかったかのように振る舞う。それよりも、「むとくなるもの」であることへの自覚が人文的なものの扉を開く。もっとも、こうなってしまうとあまり「こころと」の心たる所以はまた薄れて行くのであった。
「つくづくと思へば安き世の中をこころと嘆くわが身なりけり」(新古今集 雑下)