テレビを見ていたら、早★田の教育学部生が映像がないと授業は眠いとか自分を棚に上げたいつもの発言をかましていて、これに対してコメンテーターが、ホラー映画よりホラー小説の方が怖いのだ、といいことを言っていた。確かにネムイ授業というものはあるのだが、それは映像がないからでもアクティブなんちゃらでないからでもなく、自分の頭が悪いか先生の頭が悪いかなのである。先生の頭が悪い場合は、自分の頭を良くするべく自分で勉強すれば良いので、絵をよこせとか喋らせろとか、幼稚園か。
我々の思考を奪うのは享楽である。
以前、エヴァンゲリオンを観て、人造人間を作れるのは日本の技術者、日本のテクノロジーはすごいとか言っていたオタクは「障害物なき享楽」の人?であるから別にいいとして、シンゴジラを観て「日本の官僚もまあやるじゃないか」と言っていた本物の官僚を目にしたとき、日本の将来を心配しないわけにはいかなかった。シンゴジラは虚構なんだよバカかっ、とツッコむことは別に必要ではない。問題はそこじゃなくて、危機を外部から来るものとしてしか捉えていない、その官僚的感性があまりに幼稚園なのだ。そして、危機を乗り越えるのは、単なる知性でも勇気でもテクノロジーでもないのだ。それらだけで解決するのはガキのエンタ-テイメントだけだ。――とすれば、一体どうすればいいのかという地点を探索するのが政治や文学である。
女の一人住む所は、いたくあばれて、築地なども、またからず、池などある所も、水草ゐ、庭なども、蓬茂りなどこそせねども、所々、砂子の中より青き草うち見え、さびしげなるこそ、あはれなれ。物かしこげに、なだらかに修理して、門いたくかため、きはぎはしきは、いとうたてこそおぼゆれ。
こんな一場面だって本当は、政治的ななんやかんやがあってようやく文学のシーンとなったのであろう。わたくしは、「いたくあばれて」(酷く荒れ果てて)という語感と、「きはぎはしき」(いちいち際立っている)という語感が似通っているように感じられる。「あばれ」が「あはれ」に通じていることは無論である。こんなところが清少納言にとっての政治なのであろう。だれだったか「構造は市中を行進しない」とか言っていた。それは熱に浮かされた学生たちをくさすには必要だったのかもしれないが、隠れた構造というものはやはりあり、平安時代の女房だってそれに目を凝らしていたのである。「あはれ」自体は剰余享楽にすぎない。それを言わせている風景そのものに隠れているものが……。「築地なども、またからず、池などある所も、水草ゐ、庭なども、蓬茂りなどこそせねども、所々、砂子の中より青き草うち見え、さびしげなる」……清少納言は、なんとなく部屋の中から庭などを見過ぎたせいか、風景も植物や砂なども人間のように見えてしまっているようだ。
追記)この前ネット観てたら、国語出来ない子の特徴として、家に難しい本ばかりがあってマンガがない、という指摘があった。おれの生家じゃないか、と思ったが、マンガの大量消費が国語の能力を上げていた可能性は否定できない。繰り返して分かる範囲を大量に読むこと、これが重要なのは、案外「出来る人」にとって意識できない。つい彼らは、レベルを徐々にあげることばかり考えてしまうのだ。