世の中に、なほいと心憂きものは、人ににくまれむことこそあるべけれ。誰てふもの狂ひか、我、人にさ思はれむ、とは思はむ。されど、自然に、宮仕へ所にも、親、はらからの中にても、思はるる、思はれぬがあるぞ、いとわびしきや。
よき人の御ことは、さらなり、下衆などのほどにも、親などのかなしうする子は、目立て、耳立てられて、いたはしうこそおぼゆれ。見るかひあるは、ことわり、いかが思はざらむ、とおぼゆ。
ことなることなきは、また、これをかなしと思ふらむは、親なればぞかしと、あはれなり。
世の中で、やはりとてもいやなのは、人に憎まれることだよね……。という清少納言であるが、このあとが非道い。「狂人であっても自分が嫌われたいとは思いませんよね、しかし、愛される人と愛されない人っているんだよねー……。」のっけから差別連発である。「身分が高い人は勿論、下々のものでも親などがかわいがる子どもは目立ってかわいがられるよね。カワユイ子はもちろんだよね。可愛がれないなんてことは絶対にない。いやいや、大した容姿でもない子でも親ならばかわいいと思うはずだとしみじみ思われるよね……。」
お前はだから嫌われるんだよ……。嫌われてたどうか知らないが……。
しかし思うに、そもそも「かなし」という感情がどことなく差別的である可能性はあると思うのである。最近日本人もやたらかわいいを連発しているが、だんだん差別的になっている。かわいいと、きもいなんてのは殆ど表裏一体であり、かしこい女子などが「きもかわいい」なんてのを発明していた。
親にも、君にも、すべてうちかたらふ人にも、人に思はれむばかり、めでたきことはあらじ。
清少納言の最後のまとめがこれである。結局、清少納言が言いたいのは、かわいがられることなのである。自分がかわいがるのではない。この受け身こそが、「かわいい」の正体だ。このことばは、猫の尻尾みたいにくるんと自分の方を向いているのである。