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病は、胸。もののけ。あしのけ。
はては、ただそこはかとなくて物食はれぬ心地。
十八九ばかりの人の、髪いとうるはしくてたけばかりに、裾いとふさやかなる、いとよう肥えていみじう色しろう顔愛敬づき、よしと見ゆるが、歯をいみじう病みて、額髪もしとどに泣きぬらし、みだれかかるも知らず、おもてもいとあかくておさへてゐたるこそをかしけれ。
ここも「をかしけれ」を抜いて考えた方がよいと思う。ボードレールというより、物の怪に取りつかれる女――「ポゼッション」の世界である。この映画でも、イザベル・アジャーニの演技のそばで絶妙な顔をしている夫の演技がよかった。清少納言も
八月ばかりに、白き単なよらかなるに袴よきほどにて、紫苑の衣のいとあてやかなるをひきかけて、胸をいみじう病めば、友だちの女房など数々来つつとぶらひ、外のかたにもわかやかなる君達あまた来て、「いといとほしきわざかな。例もかうや悩み給ふ。」など、ことなしびにいふもあり。心かけたる人は、まことにいとほしと思ひなげきたるこそをかしけれ。
と書いている。「例もかうや」という言葉なんかも絶妙にひどいが、病気のシーンのリアリティというのはこういう発言が飛び出すところにある。案外、「例」という時間で病の時間から逃れようとしている発言でもあろう。
上にもきこしめして、御読経の僧の声よき賜はせたれば、几帳ひきよせてすゑたり。
ほどもなきせばさなれば、とぶらひ人あまたきて経聞きなどするもかくれなきに、目をくばりて読みゐたるこそ、罪や得らむとおぼゆれ。
読経の時に女房をちらちら見てしまう坊主が罪深いかどうかはどうでもよく、これは病の作り出す風景なのである。
無言の自然を見るよりも活きた人間を眺めるのは困難なもので、あまりしげしげ見て、悟られてはという気があるので、わきを見ているような顔をして、そして電光のように早く鋭くながし眼を遣う。誰だか言った、電車で女を見るのは正面ではあまりまばゆくっていけない、そうかと言って、あまり離れてもきわだって人に怪しまれる恐れがある、七分くらいに斜に対して座を占めるのが一番便利だと。男は少女にあくがれるのが病であるほどであるから、むろん、このくらいの秘訣は人に教わるまでもなく、自然にその呼吸を自覚していて、いつでもその便利な機会を攫むことを過らない。
――田山花袋「少女病」
この男が滑稽な最後を遂げたり?するのも、彼が「病」だという認定を受けていたことと関係がある。わたくしは、ファシズムや虐殺だって病の流行などと関係があるのではないかと疑っている。
森一郎氏のハイデガー論のなかに引用されていたもののなかに、「我死につつ在り(sum moribundus)」というものがあった。それは瀕死とかの意味じゃないとハイデガーはいうが、逆に、瀕死のイメージをまだ死ぬとは思えない人間に重ねてみているだけなのではなかろうか。それが「我あり」につながるとすれば、やはり彼も清少納言と同じく「をかしけれ」と言っている、もっといえば病に反応して精神がお祭りになってしまうタイプなのだ。