★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鶯の使用法

2021-01-02 23:29:20 | 文学


豊雄また夢心してさむるやと思へど、正に現なるを却て奇しみゐたる。客も主もともに酔ごこちなるとき、真女児盃をあげて、豊雄にむかひ、花精妙桜が枝の水にうつろひなす面に、春吹く風をあやなし、梢たちぐく鶯の艶ひある声していひ出るは、「面なきことのいはで病なんも、いづれの神になき名負すらんかし。努徒なる言にな聞き給ひそ。

「いづれの神に」云々は、伊勢物語の和歌をふまえており、その前の描写もこれでもかと花鳥風月的に飾ってある。勉強していないのでなんともいえないが、近代文学にある花鳥風月への反発は、古典の世界全体に対してよりも、自分の祖父や父親世代への反発ではなかろうか。わたくしの極めて貧しい近世の作品の知識から推測されるのは、これらが大衆化した場合ヒドイやつがたくさんいただろうな、ということだ。近代でも作品から流れ下った底というのは、予想をこえてものすごいものなのである。我々はそこで経験されたひどいものを推測できない。

わたくしの世代は、少し上の「民主集中制」的な学校の雰囲気を経験した人のそれに対する反発を読み違えるのだが、怒りはただ個人の経験に立脚しているから仕方がない。「時代」なんか、容易に再現できないものなのである。

鶴はからだが大きいので来るとすぐにつかまへられてしまひました。つかまへた人は、鶴を庭の木へつるして其の家の人と翌朝は鶴を料理して食べよう、と相談してゐます。さても一方鶯は鶴がとらへられたのを見てコッソリ後をつけて行き、これを見とゞけて家とはいふばかりの巣に一人いためる胸の中、やがてハタと膝をうち、何思ったか夕方の鐘が鳴るのを合図とし、彼の家の庭にこっそりしのび込み、「ホーホケキョホーホヘキョ、鶴は目出たい今時分、之を殺してたべるとは情を知らぬ人々だ、鶴は許してやるがいゝ、殺せば三代たゝるぞよ」とくりかへして何べんも歌ひました。これを聞いたのはこの家の下男、急いで主人へつげると主人も驚き、耳をすまして聞いて見れば何程其の通り、「これはいかぬ、成程わしが悪かった、鶴は目出たい今時分、あゝさうだ鶴はゆるしてやるがいゝ」鶴には丁度に合ふ、鶴の一声、鶴は目出たく許されて家に帰って鶯の友情を謝し、東京見物はこりこりだと元の田舎の山へ帰り二人仲よく暮しましたが、鶴はいつも人にかたりました。「良い友達をもっているものは幸福である。」と

――槇村浩「鶴と鶯」


愛の場面が、上の雨月物語のように虚実織り交ぜたものになりがちなのに、友情はそうでもない。友情の物語が文学になりがたいのもそのせいであろう。