江藤淳について演習をしているのであるが、やっぱ彼が想定している人間の常識の範疇というのになにか検討の余地があると思う。それが保守的だからという理由ではなく、なにか行為と精神の相互的な作用を想定しなさすぎなときがある気がする。彼だけの問題というより、近代文学の帰趨の問題なのだ。近代文学が崩壊しつつあるのは、江藤にとっては自明であった。わたしは自明ではないと思うけれども……。そのとき、それを支える精神が想定される。それはしかし、「技術」的なものだったはずであって、――柄谷行人はその方向性で考えた。保守と革新の対立は、江藤淳と柄谷のようなものとして変形してしまった。この影響は、かなり広範なものだ。吉本隆明なんかはもっと技術的な側面を実践的な問題として考えるので、そういう対立からは遁れでてしまう。
江藤淳について演習をしているのであるが、やっぱ彼が想定している人間の常識の範疇というのになにか検討の余地があると思う。それが保守的だからという理由ではなく、なにか行為と精神の相互的な作用を想定しなさすぎなときがある気がする。彼だけの問題というより、近代文学の帰趨の問題なのだ。近代文学が崩壊しつつあるのは、江藤にとっては自明であった。わたしは自明ではないと思うけれども……。そのとき、それを支える精神が想定される。それはしかし、「技術」的なものだったはずであって、――柄谷行人はその方向性で考えた。保守と革新の対立は、江藤淳と柄谷のようなものとして変形してしまった。この影響は、かなり広範なものだ。吉本隆明なんかはもっと技術的な側面を実践的な問題として考えるので、そういう対立からは遁れでてしまう。