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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

霹靂

2021-01-03 23:56:36 | 文学


客殿の格子戸をひらけば、腥き風のさと吹きおくりきたるに恐れまどひて、人々後にしりぞく。豊雄只声を呑て嘆きゐる。武士の中に巨勢の熊檮なる者胆ふとき男にて、「人々我が後に従て来れ」とて、板敷をあららかに踏て進み行く。塵は一寸ばかり積りたり。鼠の糞ひりちらしたる中に、古き帳を立てて、花の如くなる女ひとりぞ座る。熊檮、女にむかひて、「国の守の召つるぞ。急ぎまゐれ」といへど、答へもせであるを、近く進みて捕ふとせしに、忽地も裂るばかりの霹靂鳴響くに、許多の人逃る間もなくてそこに倒る。

豊雄は女から剣をもらった。やはりただでモノをもらうと碌なことはない。それにしても、いつも何か怪しいやつがいる場合に、腥いのはなぜであろうか。血のにおいか、腐臭か、――つまり死の匂いであろうか。それとも、何か性の営みの匂いか何かであろうか。魚や獣の肉の匂いであろうか。

最近はあまり匂いがしない世の中になってしまったが、少し前までは、目に見えるものよりも匂いの方が危険を察知できるものだったのである。こんな状態へ憧れがあるのか、学生のレポートなんかには、やたら五官を使って云々の記述がでてくる。どこで習ったのか知らないが。思うに、五官のバランスが崩れると、――最近で言うと、嗅覚を使わなくなると、視覚や聴覚がやたら敏感になるのではないか。我々がすぐそれらの刺激に反応してぐずぐず言っているのはそのせいかもしれない。「鼠の糞ひりちらしたる中に、古き帳を立てて、花の如くなる女ひとりぞ座る。」というのは視覚的である。視角優位の世界は、この頃から始まっていたのかも知れません。

自分は、小声でツネ子に言いました。それこそ、浴びるほど飲んでみたい気持でした。所謂俗物の眼から見ると、ツネ子は酔漢のキスにも価いしない、ただ、みすぼらしい、貧乏くさい女だったのでした。案外とも、意外とも、自分には霹靂に撃ちくだかれた思いでした。自分は、これまで例の無かったほど、いくらでも、いくらでも、お酒を飲み、ぐらぐら酔って、ツネ子と顔を見合せ、哀しく微笑み合い、いかにもそう言われてみると、こいつはへんに疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、金の無い者どうしの親和(貧富の不和は、陳腐のようでも、やはりドラマの永遠のテーマの一つだと自分は今では思っていますが)そいつが、その親和感が、胸に込み上げて来て、ツネ子がいとしく、生れてこの時はじめて、われから積極的に、微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました。吐きました。前後不覚になりました。お酒を飲んで、こんなに我を失うほど酔ったのも、その時がはじめてでした。

――「人間失格」


ここでの霹靂なんて、思いの問題に過ぎない。「人間失格」には何回か霹靂がでてくるが、稲光とは関係なかったと記憶する。もはや、主人公にとって何でも自分のなかで起こっており、人間さえ自分のなかの問題に過ぎなかった。