昭和六年の「日本人の偉さの研究」と言う本を読んだ。著者は中山忠直氏。私の貧しい認識では「極右」だとか言われていたひとである。しかし、読んでみたら、昨今のコンプレックスにまみれた日本礼賛に比べれば全然たいしたことなかった。氏は、マルクス主義者だった過去があった。その過去の文章もおまけで付いているのだが、その冒頭に「愛国者と危険思想家は生物学的に同資質」とか言っていた。しらんけど。
中山氏もハーレー彗星でSFにめざめた口であった。大正期のスピリチュアリズムから、SFへ。更に右傾化へ、――こういう事象に関する研究がでるんだろうねえ……。しかし、このような観点でなく、こういう人たちをあまり排除せずにある種の可能性としてみることは不可能であろうか。
ひとつは、中山氏はイタリア派だということである。どうもナチスびいきとは区別して考えた方がいいのだ。ソ連型?ともみられた統制経済、これへの反発は様々なヴァリエーションがあったのだ。三木清だって中野正剛や花×清輝だってそのヴァリエーションなのである。
確かに、いまコロナ騒ぎでも同様の事態が観察されるように、ある意味で、全体の観点というものが我々の國には存在していない。相も変わらず、陣取り合戦しかやっていないのだ。だから、ソ連型の統制になるのか、なにか天皇親政のごときユートピアがあるのか、そんな観点から、我々は全然遠くに来ていない。戦時下は、たしかに今に繋がる近代の終わりの始まりだった側面があった。一方で、蓑田胸喜みたいなのは、西田幾多郎さえもマルクスを信奉してるんじゃないかという疑心暗鬼ひいては怒りにかられていて、――彼のような人間に対する怒りに支えられたナショナリズムは、これまた全体への視点を失わざるをえない。
つまり、わたしが心配しているのは、怒りの存在である。レーニン曰く「一般に怨恨というものは、政治の中では、最悪の役割を演じる」。