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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

汚濁

2021-01-28 23:09:13 | 文学


前の年、かくの如くからうじて暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまにあとかたなし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。はてには、笠うち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはんや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。あやしき賤、山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に、赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。

わたくしは、あまりこういう場面がすさまじいとは思わない。「くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり」というのは実際の風景にはなりきっていない。これは、人心の変容と同じことのように鴨長明には映っている。そのあとの仏像・仏具破壊に続いていくからである。長明の目ははじめから「濁悪」に覆われてしまっている。むろん、これは彼が世を川に喩えていることなんかと相即的である。いざとなったら仏像や仏具など、生きるためにどうにかして当然である。

交際よ、汝陰鬱なる汚濁の許容よ、
更めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂に耐へんとす、
わが腕は既に無用の有に似たり


――中原中也「山羊の歌」


実際の風景というのはこういうもので、汚濁そのものをみていてもこうはならないのであった。文学にも進歩はあった。