もし、おのれが身、数ならずして、権門のかたはらにをるものは、深く喜ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。なげき切なるときも、声をあげて泣くことなし。進退安からず、起居につけて、恐れをののくさま、例へば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし、貧しくして、富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ出で入る。妻子・僮僕のうらやめるさまを見るにも、福家の人のないがしろなる気色を聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。もし、せばき地にをれば、近く炎上ある時、その災を逃るることなし。もし、辺地にあれば、往反わづらひ多く、盗賊の難甚だし。また、勢ひあるものは貪欲深く、独り身なるものは、人にかろめらる。財あれば、恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従へば、身苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
今、方丈記を読み直してみて、なんとなく面白くないなと思うのは、こういう部分でもなにか発見というものがあるのかと思うからだ。「人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従へば、身苦し。従はねば、狂せるに似たり。」などということは、中学生だってしってるぞ。他人に頼ると他人の所有物になってしまう、というが、そんな極端なことは現実では起こらない、そこそこでやるほかはない、という知恵の中に現実が宿る。その現実に感情が宿る。
長明は、世の地獄を見過ぎたせいか、やや彼我から彼岸に思いがいこうとしている。彼の文学は「無常の文学」ではなく、本当は「無情」なのではないだろうか。
方丈記には明らかに人間の有象無象の情意を一回無に帰そうという欲望がある。無常観よりも凶暴なものだ。まあ災害記だしね……
神仏分離150年シンポジウム実行委員会編『神仏分離を問い直す』を読んだが、近代における仏教の在家主義について触れられていた。確かに宮澤賢治なんか在家主義じゃないとでてこない。在宅勤務を一年間やってみて、われわれはすごく根本的に在家主義的なんだなと思った。方丈記が、放浪記ではなく、「方丈」から世の中を見ていることも重要だ。彼も、在家主義なのである。そこには、隠遁よりも拒絶がある。彼のまわりには、神仏でも何でも御利益に換言する災害よりも怖ろしい社会が広がっている。だからといって、所有をすてるというところまでいかない。「方丈」にかぎるようなあり方で対抗するのである。出家主義は、「人を頼めば、身、他の有なり」となるからむろんだめなのであった。
あらゆる所有の王国に呪いあれ
*
万民平等なる母体の胎児たりし時
卿等に所有の観念の兆せしや否や
我古代より現代に至る
社会の変遷による人々の苦悩は
個人があやまれる自由の曲訳により
所有の観念のあやまれる故なりと断ずるなり
*
自由とは何ぞや
*
あらゆる個人の所有を許さざる万民平等の時
神人等が私慾の一点も加えられざる処
これあるのみ
*
我ここに按ずるに
所有の生みなせる処の
社会の空中に燦然たる
電波線前面に
大玻璃板を設らえ
これを中断せずんばあるべからず云々
――今野大力「所有」
所有を完全になくすと、われわれは、長明や我々が本当は嫌っている、自由で習合的で御利益的な世界が待っている可能性がある気がする。我が国でなかなかコロナ対策が進まず、地主制もなくならなかったのは、その性もあったのかも知れない。地主だって、出家しているつもりだったのかもしれないのでる。