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この間数箇度の合戦に打ち勝つて、敵を亡ぼす事数を不知といへども、敵大勢なれば敢へて物の数ともせず、城中すでに糧尽きて助けの兵なし。元より天下の士卒に先立つて、草創の功を心ざしとする上は、節に当たり義に臨んでは、命を可惜にあらず。しかれども事に臨んで恐れ、謀を好んで成すは勇士のするところなり。さればしばらくこの城を落ちて、正成自害したる体を敵に知らせんと思ふなり。その故は正成自害したりと見及ばば、東国勢定めて悦びを成して可下向。下らば正成打つて出で、また上らば深山に引き入り、四五度がほど東国勢を悩ましたらんに、などか退屈せざらん。これ身を全うして敵を亡ぼす計略なり。面々いかん計らひ給ふ」と云ひければ、諸人皆、「可然」とぞ同じける。
正成の有名な死んだふり作戦である。よく猫とかやってる気がするが、――とにかく、我々は大勢の死には強いが個人の自決には弱い。案の定、正成の死んだふりに、相手は正成を讃えてしまうのである。総力戦になっては、こんなことを夢想しているとだめである。個人の自決は蟻が踏み潰されたのと同じである、敵はかさにかかって爆弾を落とすだけである。
以前、「紺碧の艦隊」というアニメーションを少し見たことがある。パールハーバーの前に、山本五十六の転生した人物たちがクーデターを起こし政府を乗っ取り、潜水艦とかを作って有利な敗戦を導こうとする話である。
最後まで見ていないのであれなのであるが、あいかわらず、正成みたいな個人の知略を頼っている。潜水艦が好きなのは、死んだふりが好きなのと似ている。
自害をする勇気のない私は。少しでも世間の眼に私自身を善く見せたい、さもしい心もちがある私は。けれどもそれはまだ大目にも見られよう。私はもっと卑しかった。もっと、もっと醜かった。夫の身代りに立つと云う名の下で、私はあの人の憎しみに、あの人の蔑みに、そうしてあの人が私を弄んだ、その邪な情欲に、仇を取ろうとしていたではないか。それが証拠には、あの人の顔を見ると、あの月の光のような、不思議な生々しさも消えてしまって、ただ、悲しい心もちばかりが、たちまち私の心を凍らせてしまう。私は夫のために死ぬのではない。私は私のために死のうとする。私の心を傷けられた口惜しさと、私の体を汚された恨めしさと、その二つのために死のうとする。ああ、私は生き甲斐がなかったばかりではない。死に甲斐さえもなかったのだ。
――「袈裟と盛遠」
昨日語ったような正成的なウルトラ個人主義は、結局はこういうかんじになるのではないか。戦後の我々は「死に甲斐もない」と思いながらいるもんだからこそ、勇気は甲斐を獲得する方向で働き、時々死に急がせる。病もあるし苦悩もある。もっと厄介なのは、個人を労りすぎる個人である。