★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

方丈極楽記

2021-02-05 23:05:57 | 文学


その所のさまを言はば、南に懸樋あり。岩を立てて、水をためたり、林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。名を外山といふ。まさきのかづら、跡うづめり。谷しげれど、西晴れたり。観念のたより、なきにしもあらず。春は、藤波を見る。柴雲のごとくして、西方ににほふ。夏は、ほととぎすを聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、ひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむほど聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへつべし。もし、念仏ものうく、読経まめならぬときは、自ら休み、自ら怠る。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに、無言をせざれども、独りを居れば、口業を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん。もし、跡の白波に、この身を寄する朝には、岡の屋に行き、かふ船を眺めて、満沙弥が風情を盗み、もし、かつらの風、葉を鳴らす夕べには、尋陽の江を思ひやりて、源都督の行ひをならふ。もし、余興あれば、しばしば松の響きに秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲を操る。芸はこれつたなけれども、人の耳を喜ばしめんとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、自ら情を養ふばかりなり。

「念仏ものうく、読経まめならぬときは、自ら休み、自ら怠る」とあるが、念仏を勉強に置き換えれば、長明がほとんど念仏をさぼりながらぼーっとしていたことは容易に想像されるところだ。方丈の住処は質素ではあるが、その環境との融合でまるで極楽である。わたくしが書斎や書棚に凝っているのと同じで、かれは素晴らしい趣味人なのである。そりゃ地震や都の人たちは嫌いだよ……。

「自ら情を養ふばかりなり」。対して、――いや、だからこそ、世の中そのものは「無常」である。

 私ははっと思って、一旦引いた手を又出した。そして注がれた杯の酒を見つつ、私は自ら省みた。
「まあ、己はなんと云う未錬な、いく地のない人間だろう。今己と相対しているのは何者だ。あの白粉の仮面の背後に潜む小さい霊が、己を浪花節の愛好者だと思ったのがどうしたと云うのだ。そう思うなら、そう思わせて置くが好いではないか。試みに反対の場合を思って見ろ。この霊が己を三味線の調子のわかる人間だと思ってくれたら、それが己の喜ぶべき事だろうか。己の光栄だろうか。己はその光栄を担ってどうする。それがなんになる。己の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人のそれを理解してくれる人がなくたって、己はそれに安んじなくてはならない。それに安んじて恬然としていなくてはならない。それが出来ぬとしたら、己はどうなるだろう。独りで煩悶するか。そして発狂するか。額を石壁に打ち附けるように、人に向かって説くか。救世軍の伝道者のように辻に立って叫ぶか。馬鹿な。己は幼穉だ。己にはなんの修養もない。己はあの床の間の前にすわって、愉快に酒を飲んでいる。真率な、無邪気な、そして公々然とその愛するところのものを愛し、知行一致の境界に住している人には、逈に劣っている。己はこの己に酌をしてくれる芸者にも劣っている」
 こう思いつつ、頭を挙げて前を見れば、もう若い芸者はいなかった。それに気が附くと同時に、私は少し離れた所から鼠頭魚が私を見ているのに気が附いた。鼠頭魚は私の前に来て、じっと私を見た。
「どうなすったの。さっきからひどく塞ぎ込んでいらっしゃるじゃありませんか。余興に中てられなすったのじゃなくって」
「なに。大ちがいだ。つい馬鹿な事を考えていたもんだから」


――鷗外「余興」


「知行一致の境界に住している人には、逈に劣っている」。わたくしは、どちらかといえば、こういう風に自らを苛んでいる人の方が極楽にいける気がするのだ。