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ここに本朝人皇の始め、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐の天皇の御宇に当たつて、武臣相摸の守平の高時と言ふ者あり。この時上乖君の徳、下失臣の礼。これに従ひ四海大きに乱れて、一日もいまだ安からず。狼煙翳天、鯢波動地、至今四十余年。一人として而不得富春秋。万民無所措手足。
ぱっとみると、「狼煙翳天、鯢波動地」という漢字が濃く、上を見ると、後醍醐という漢字も濃い。冗談であるが、なにか字面というものが、天に煙が覆っている感じを思わせる。「而不得富春秋」、もはや漢文がよめなくてもいいこと書いている感じがしない(ちがうか)。いまも国語が不得意な学生は、文字自体をいやがっている。これは重要な点ではあるまいか。
以前にも書いたが、北一輝の存在感は、あの漢字片仮名交じり文にある。曰く、「明治大帝ナキ後ノ歴代内閣ノ爲ス所悉ク大帝降世ノ大因縁タル日露戰爭ノ精神ニ叛逆セザル者ナシ。一幸徳秋水ノミガ大逆罪ニ非ズ」。福本和夫だって、あの暴力的な二文字縦棒とか「過程を過程する」などの二重パンチにある気がするのだ。こんなかんじでゆくと、大江健三郎は、自らの複雑な草稿を研究者にみせることによって、より自分の文学を複雑に見せたいのではなかろうか。
よだかはもうすっかり力を落してしまって、はねを閉じて、地に落ちて行きました。そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、よだかは俄かにのろしのようにそらへとびあがりました。そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲うときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
――宮澤賢治「よだかの星」
さすが、宮澤賢治ともなると、狼煙は世を乱すものではなく、もっと反抗的なものだ。狼煙が黒く思考を乱すとは限らない。星になることもあるのだ。