★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

落花の雪に踏み迷ふ

2021-02-17 23:12:23 | 文学


落花の雪に踏み迷ふ、交野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かすほどだにも、旅宿となれば物憂きに、恩愛の契り浅からぬ、我が故郷の妻子をば、行末も知らず思ひ置き、年久しくも住み馴れし、九重の帝都をば、今を限りと返り見て、思はぬ旅に出で給ふ、心の内ぞ哀れなる。

倒幕計画の罪で鎌倉に連行される日野俊基の、有名な場面である。落花の雪は雪だろうか、花であろうか、それよりも、それを踏み迷っている人と雪・花が揺れているのが印象的である。こういう場面は、その韻律が心情のリズムになっているので、内容がそこそこ紋切り型でも、その揺れるものの動作が重要なのだ。

新古今集や古今集といった文化を背負っているこの当時の人々は、もう自分の言葉などとうに喪失しており、あとは動作なのである。

もしかしたら、やれ茶道だ、切腹だ、武士道だといった、動作中心の文化は、――今と同じく、煮詰まった文化を揺り動かすだけの目的だったのかもしれないのである。我々の国の歴史は、実は長すぎるのだ。我が国は、米国の独立戦争・南北戦争と同じように、江戸幕府を実質建国だと思っている節がある。織田、豊臣、徳川のトライアングルは内面化しているが、その前はカオスである。しらんけど。

「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」漱石先生の句である。今から三十余年の昔自分の高等学校学生時代に熊本から帰省の途次門司の宿屋である友人と一晩寝ないで語り明かしたときにこの句についてだいぶいろいろ論じ合ったことを記憶している。どんな事を論じたかは覚えていない。ところがこの二三年前、偶然な機会から椿の花が落ちるときにたとえそれが落ち始める時にはうつ向きに落ち始めても空中で回転して仰向きになろうとするような傾向があるらしいことに気がついて、多少これについて観察しまた実験をした結果、やはり実際にそういう傾向のあることを確かめることができた。それで木が高いほどうつ向きに落ちた花よりも仰向きに落ちた花の数の比率が大きいという結果になるのである。しかし低い木だとうつ向きに枝を離れた花は空中で回転する間がないのでそのままにうつ向きに落ちつくのが通例である。この空中反転作用は花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率等によって決定されることはもちろんである。それでもし虻が花の蕊の上にしがみついてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動しその結果はいくらかでも上記の反転作用を減ずるようになるであろうと想像される。すなわち虻を伏せやすくなるのである。

――寺田寅彦「思い出草」


確かに、物体の運動は近代によってあらたに見出された。しかし、「落花の雪に踏み迷」わなくなったわけではない。