★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

一人いまだ生きてあり

2021-02-19 23:10:17 | 文学


ただし天下草創の功は、武略と智謀とに二つにて候ふ。もし勢を合はせて戦はば、六十余州の兵を集めて武蔵相摸の両国に対すとも、勝つ事を得難し。もし謀を以つて争はば、東夷の武力ただ利を砕き、堅きを破る内を不出。これ欺くに安うして、怖るるに足らぬところなり。合戦の習ひにて候へば、一旦の勝負をば必ずしも不可被御覧。正成一人いまだ生きてありと被聞召候はば、聖運遂に開かるべしと被思召候へ


「正成一人いまだ生きてありと被聞召候はば、聖運遂に開かるべし」とか言ってみたいものである。いまなんか、どうみてもそうしてはいけない人間が、自分で自分を褒めたりして、自己肯定をはかっており、――にもかかわらず、どうせこの輩は今自己肯定が流行っているから肯定しているからであり、自分一人になったら、どこかに隠れてしまうであろう。正成は、自分を過大評価しているとともに、天皇に最後までついて行く、そのためには死ぬ準備があると言っているのである。

これが、日本人のマジョリティの中で消化されると、相手は物量だけだ最後の一人になるまで戦う、――とかいいながら、誰もそんな気はなく、ヨーロッパと本気で戦おうとしてたのは思想家たちや文学者のごく一部に過ぎない。やはり、スローガンでなく、思想の問題として闘いを考えた連中だけが戦うことができるのである。ただ、頑張りゃいいというのは、いまの自己肯定マニアとおなじで、――もうはっきり言った方がいいと思うが、偏執狂であろう。

いかなる茅屋に住んでいても、いかなる身装をしていても、偉人は必ず偉人である。いかなる地位にあろうとも、父祖の地位財宝を擁しているだけでは、凡人以下の凡人である。で、乱世でなくとも大人物になれるのは同じいことである。
 世の中には戦争があり、平和がある。何人も爛漫たる平和を望まぬものはないが、その平和を維持せんとしては、時に戦争をしなければならない。大戦争さえすればその後に大平和が来る。世の中はこういうものである。実力のない国は戦争には負けるし、平和もいつ破壊せられるか知れない。一個人にしてもそうである。大いに奮闘した人でなければ大きな安楽は得られない、少ししか働かないものは、いつ一日休息ということなしに、こせこせ働きつづけている。青年の血気盛んな時代にやれるだけやって、いかなる圧迫にも苦痛にも堪えて行くだけの反撥的勇気を養うに限る。


――大隈重信「青年の天下」


すなわち、こういうことを青年に吹き込んだ人間の凡人性、小人性をそろそろ問題にした方がよいようだ。

2021-02-19 23:10:17 | 文学


主上是は天の朕に告る所の夢也と思食て、文字に付て御料簡あるに、木に南と書たるは楠と云字也。其陰に南に向ふて坐せよと、二人の童子の教へつるは、朕再び南面の徳を治て、天下の士を朝せしめんずる処を、日光月光の被示けるよと、自ら御夢を被合て、憑敷こそ被思食けれ。夜明ければ当寺の衆徒、成就房律師を被召、「若此辺に楠と被云武士や有。」と、御尋有ければ、「近き傍りに、左様の名字付たる者ありとも、未承及候。河内国金剛山の西にこそ、楠多門兵衛正成とて、弓矢取て名を得たる者は候なれ。是は敏達天王四代の孫、井手左大臣橘諸兄公の後胤たりと云へども、民間に下て年久し。其母若かりし時、志貴の毘沙門に百日詣て、夢想を感じて設たる子にて候とて、稚名を多門とは申候也。」とぞ答へ申ける。

源氏物語の恋人たちが夢を見るように――天皇も楠を夢に見た。後醍醐天皇は既に部下を殺されている。私のかってな妄想であるが、夢には自分を慕っていた人間が回帰してくるのである。天皇の夢はうたた寝のものである。うたた寝の夢は確かに、現実感がある。日光菩薩と月光菩薩が、ふたりの童子となって楠を勧めているように思えてくる。――すると、楠という武士が見つかるのだ。そりゃ、楠はたくさん生えておる、いないことはないだろう。で、なんかよく分からんが、武神である毘沙門天に百日詣していたら生まれた楠木正成という輩が見つかる。

夢と現実が、――これは総じて現実の出来事だから、それが仏の世界との架橋を現実として認識させる。そしてその認識は、現実をそのように認識させる。

楠正成のような者がみつかるのは偶然ではなく、この人物の由縁のようなものが偏在してしたことの証拠であろう。なぜなら、上のような認識はありふれているからである。そして夢を見る人間は無限にいる。

どうも、自分の家がなんとか天皇だとか清和源氏だとか言っている家は無限にあるのだが、おそらく夢の重層的効果なのである。とにかく、誰かが天皇が祖先だみたいなことを言い出したとたん、どこかで誰かと血がつながり、オセロの端っこの黒が遠くに離れた黒に反応して、全てが一気に黒くなる。血とは夢であり現実でありオセロの駒に過ぎない。

「いまごろの馳せ参じさえ、ちと懈怠と思われるのに、ぼッと出の河内の新守護などが、何の策を持ちましょうや。なるほど、金剛千早ではめざましい善戦をした者かもしれません。けれどあれは自領の一小局地の戦い」
「む」
「ここの大局では、戦場の規模、戦いのかけひき、雲泥のちがいです。すべて堂上方のみでなく、世上の武士も、ちと楠木の名を買いかぶッてはおる。どう見ても義助には、あの正成に、韓信、張良の智謀の片鱗もあろうとは思えません」
「しかし」
 と、義貞は抑えた。自分の言いたい以上、弟が言ってしまったからである。


――吉川英治「私本太平記 湊川帖」


楠木の名を買いかぶっている訳ではない。しかし、我々の先祖は隣の家に生えている楠をみても、つい正成を口走ってしまう経験をしたことがある。