★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

三界の足枷?

2021-02-12 23:07:36 | 文学


それ、三界は、ただ心ひとつなり。心、もし、やすからずば、象馬七珍もよしなく、宮殿樓閣ものぞみなし。今、さびしきすまひ、一間の庵、みづから、これを愛す。おのづから都に出でて、身の乞がいとなれることを恥づといへども、帰りて、ここに居る時は、他の俗塵にはする事をあはれむ。もし、人、このいへることを疑はば、魚と鳥との有様を見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味もまた同じ。住まずして、誰か悟らむ。

わたしは、無常何とかみたいな説教よりも「魚と鳥との有様を見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味もまた同じ」といった指摘に、この作者の本領をみる。長明も魚や鳥ではない。だからその心持ちは分からない。だから皆さんはおれの気持ちもわかんないだろ、という論法である。ただ、おれの気分は環境が違うおまえらには分からないと言っているのではない。私は魚や鳥みたいなものだよ、と言って居るのである。

鳥や魚だって三界の外に出ているわけじゃないのだが、水に飽きない状態や、林を望んだりする状態が――無色界ともちがった境地として夢みられている。

思うに、長明は「子は三界の首枷」みたいなものを嫌って、「無常は三界の首枷」のような状態にあるのではなかろうか。どうも、作品のなかのいらいらした感じがそう思わせる。

「このごろはよくむかしのことを思いだす。よくあばれたからネ。海の底へ三界万霊塔を据えつけたなんてえのは、おれたちぐらいのもんだろう」
「なにをいいだすつもりなんだ」
「まあ、これを見てくれということさ」
 戸田が上着の胸裏を返してみせた。二寸ほどの幅の白い布を縫いつけ、住所と名が楷書で書きつけてあった。
「なんだい、それは」
「これは迷子札よ。いつどこでぶッくらけえっても、死骸だけはジープにも轢かれずに戻って来るようにというわけ。人間もこうなっちゃおしまいだ。おい、なにか出さないか」


――久生十蘭「三界万霊塔」


よくわからんが、災害と人間関係でノイローゼになっている長明が、むしろ悲惨な人間状況から疎外されていた可能性を、近代文学を読むと感じられるのである。近代は、その疎外を一生懸命解こうとした文学を生み出した。どうも20世紀の悲惨さは、そういうパンドラの箱を常に開け続けた結果とも言えなくはないのだ。