★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

寄居虫的

2021-02-07 23:19:51 | 文学


 おほかた、この所に住み始めし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに、五年を経たり、仮の庵も、やゝふるさととなりて、軒には朽葉深く、土居には苔むせり。おのづから、事の便りに、都を聞けば、この山にこもり居て後、やんごとなき人のかくれ給へるも、あまた聞こゆ。まして、その数ならぬ類、尽くしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞ仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。程狹しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身をやどすに、不足なし。寄居虫は、小さき貝をこのむ。これ、事知れるによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。事を知り、世を知れれば、願はず、走らず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを楽しみとす。すべて世の人の住家をつくるならひ、必ずしも、事の為にせず。或は、妻子・眷屬のためにつくり、或は、親昵・朋友のためにつくる。あるは、主君・師匠、および財宝・馬牛のためにさへ、これをつくる。われ今、身のためにむすべり。人のためにつくらず。ゆゑ如何となれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべき奴もなし。たとひ、広くつくれりとも、誰をやどし、誰をかすえん。

「寄居虫は、小さき貝をこのむ。これ、事知れるによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。事を知り、世を知れれば、願はず、走らず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを楽しみとす」という理屈は変にみえる。普通は、欲張って願ったり冨を追いかけたりすることと、危険をさけることは、どちらもある程度の妥協をもってなすべきことであり、優先順位をつけられないからだ。長明の卓見は、――安全を優先して、欲望関係はすてる「べき」と言っているのである。寄居虫(ヤドカリ)でさえ知っているのに、都の大衆ときたらそれ以下なのだ。問題は、宿以外の物を身につけているから欲望やなにやらが発生してしまう事情である。それを捨てればいいではないか、えっ?何故って、「今の世のならひ」だしね……。

こんな世の中で家族をもって自らを危険にさらすより、寄居虫になって山に逃げるよ、わしは……という訳である。

なるほど、今の世の中も全体として無常としかいいようがないので、リスクの点から家族を持たない人が増えているのかも知れない。

むろん、よくある自己合理化である可能性は高い。そういえば、以前ホリ★モンという一種の寄居虫が「世の中が無常であるのは単に真理である」と言っていたが、まずそれが間違っている。世の中が無常にみえるのは我々が勝手に自分以外のものに失望しているからに他ならない。

こういう寄居虫は近くのものに失望したために、遠くばかりがよく見える。私が尊敬する人生幸朗師匠は、近くの物がみえないために近くの物に執着し続けて愚痴ばかり言っていた。あるとき、飛田遊廓で店の女子を妻と間違え「こんなところで何してんねん」と殴りかかったり、皿の絵の海老をつつきながら「とれへん」と言って居たらしい(ウィキペディア)。こちらの方がよほど虚実皮膜の真理に接近しているのだ。

突然庫裏の方から、声を震わせて梵妻が現われた。手に鍬の柄のような堅い棒を持ち、肥った体を不恰好に波うたせ、血相かえて来た。その勢にすっかり脅えて、子供達は干潟の寄居虫のようにあわてて逃出した。
 梵妻はどこまでもと追かけて行ったが、子供の方が素早くて、たちまち門の外にちりぢりに散ってしまった。
「鬼婆あ。」
「とったぞ、とったぞ、柿六つ。」


――水上滝太郎「果樹」


客観的にいって、寄居虫は逃げ足が速いような気がする。「走」っているのは長明の方だ。