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鶏人暁を唱へし声、警固の武士の番を催す声ばかり、御枕の上に近ければ、夜の御殿に入らせ給ひても、露まどろませ給はず。萩戸の明くるを待ちし朝政なけれども、巫山の雲雨御夢に入る時も、まことに暁毎の御勤め、北辰の御拝も怠らず、今年いかなる年なれば、百官無罪愁への涙を滴配所月、一人易位宸襟を悩他郷風給ふらん。天地開闢よりこの方斯かる不思議を不聞。されば掛天日月も、為誰明らかなる事を不恥。無心草木も悲之花咲く事を忘れつべし。
「萩戸の明くるを待ちし朝政なけれども、巫山の雲雨御夢に入る時も、まことに暁毎の御勤め、北辰の御拝も怠らず」と、ちょっと錯乱しているようでもある。清涼殿の萩の戸を開けて待った政務はいまはないし、そういえば、后たちとの愛の夢が空けた朝でもちゃんと勤行や皇祖神への拝礼はやってたのに、……というわけで、いや、あんた、妻たちと遊びすぎてこうなったのではないからオチツケ、といいたい。よほど、中国の楊貴妃の件などが我々の先祖たちには怖ろしい出来事だったのだ。なぜというに、古事記の昔から、天皇家の歴史とは、愛と欲望の歴史だからであった。つい、愛欲に溺れた自分がその愛欲に苦しんで身を滅ぼした?皇祖神だかに祈ってしまうという聖なる循環……
……今年はヒドイ年であった。なにゆえ、部下たちが罪に落ち、流刑の月に涙を流し、天皇が退位して他郷に悩むこととなったのか。此の世が始まっていらい、こんなことは聞いたことねえぞ(そ、そうかな……)。日月もこればっかりは恥を知るべきだ。あなた方の役割は善悪を照らしてなんぼじゃないか、もはや、心のない草木でさえ花咲くことを忘れてしまうに違いないよ。
訳してみたら、ひどい愚痴である。
――とはいえ、天皇の生活習慣がひっくり返ってしまうと、彼らの目からは世界がひっくり返ってみえるのであった。彼らにとって世界とは、天皇が照らす秩序のことだからである。我々みたいな「世界」が彼らにあるわけではない。このときのショックは、一世一代の大失恋をして生きる気がなくなった中学生を想起すればよいのではないか。
こういう純情をみるにつけ、二十世紀の我々の枯れ果てた感じはすごく、昨日少し、杉山平助の『二十一世紀物語』(昭15)を読んだのだが、こんなせりふに感動した。
現在の火星の王様は、チンチクチンという傑物だそうで、学問も大して深い人だといふことでございました。
一見、こういうせりふは余裕があるようであるが、このあと日本は破滅的な最後を迎えるのである。天皇が生き延びたのは運に過ぎない。