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静かなる暁、このことわりを思ひつづけて、みづから心に問ひていはく、世を遁れて山林に交るは、心ををさめて道を行はむとなり、しかるを汝、すがたは聖人にて、心は濁りに染めり、栖はすなはち浄名居士の跡をけがせりといへども、たもつところはわづかに周利槃特が行にだに及ばず、もしこれ貧賤の報のみづから悩ますか、はたまた妄心のいたりて狂せるか。そのとき心さらに答ふる事なし。ただかたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏両三遍申してやみぬ。
最後まで悟りとは縁遠い長明である。ゆく河の流れは絶えずして云々みたいな言いぐさが、実のところ、孤独に頑張ってみているのだがまったく悟る気配がないどうにも無策な男から吐かれたということを、もっとちゃんと教育現場はおしえなくてはならぬ。無常観は無力感の言い換えの側面が強いに決まっているのである。あたかも無常観が立派な哲学であるかのように語ってきているのはあまりにもまずい。長明に比べれば、平安の女たちの日記の方が100倍悟っている。あるいは、光源氏なんか、死んだときに姿が見えぬ、まさに泡沫化している。これにくらべると長明は自分を空しいとは全く思っていない。
で、彼の意識とは無関係に、結局「不請」(願ってもいないのにしらんうちに)口をついてでたのである――阿弥陀仏。
仏は我の舌に有り、というべきか。漱石の猫もいざとなったら南無阿弥陀仏とやっていた。仏は猫舌にもあり。
私はその生活原理を何で決めるかと言えば念仏申さるるように生きるということによって定める。いろいろなことを知っていながら、いろいろな出来事がありながら、それを総括する根本原理は常に念仏申さるるように生きるそれが南無阿弥陀仏の信仰である。念仏申さるるように生きることそのことが真宗信仰の生活である。これはいいか、これは間違いではないか、という生活は不安であり、同時に元気がない。ところが念仏申さるるように生きると元気が出る。[…]たとえば私が道を歩いていたら魚の頭がころがっていて、そこへ蠅がブーンと飛んで来たとする。その魚はかつては海で泳いでいたものを、漁師がとって、そして人がそれを買ってお蔬菜にして食って、その頭を捨てた。そこへ青蠅が飛んで来て食っているのである。その事実を見て、それがいいとか悪いとか考えずに事実を事実として感じたところが実相である。人生もまたこうして出来ているものである。
――倉田百三「念仏と生活」
考えてみると、倉田百三の方が説明はちゃんとしているように見えて、これもまた生悟りなのだ。ここからみると、長明は、人が災害によって心をなくして了う様を、――ひいては自分の心も普通ではなかったことをずっと示唆してきたような気がするのである。そんな状態では、人の心は倉田のいうような「実相」に止まっていることは出来ない。実相は、勢い災害の時のように崩壊し炎上していってしまうのである。我が国は定期的に、そのような実相の崩壊を経験してきている。長明の「河の流れ」というのは本当そんなものの心象ではなかろうか。おそらく、彼が周囲の物を省き人から離れたのは、実相の変容というやつの恐ろしさを骨の随まで経験したからに相違ない。それを経験した人間は、目の前から物を遠ざけ、静かに死んでゆくしかない。長明は本当はそう言いたかったのではあるまいか。