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勝地は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし。歩み煩ひなく、心遠くいたるときは、これより峰つづき、炭山を越え、笠取を過ぎて、或は石間にまうで、或は石山ををがむ。もしはまた粟津の原を分けつつ、蝉歌の翁が跡をとぶらひ、田上河をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。かへるさには、折につけつつ桜を狩り、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の実を拾ひて、かつは仏にたてまつり、かつは家づとにす。もし夜静かなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く槇のかがり火にまがひ、暁の雨はおのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、峰の鹿の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。或はまた埋み火をかきおこして、老いの寝覚の友とす。おそろしき山ならねば、梟の声をあはれむにつけても山中の景気折につけて尽くる事なし。いはむや、深く思ひ深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず。
白居易の「勝地本来定主無シ、大都山ハ山ヲ愛スル人ニ属ス」に導かれている部分である。環境に遊ぶ彼のあたまのなかには最初からこの白居易の言葉があったに違いない。風景は地主の物ではなく、それを愛する物に属す、彼のあたまのなかでは、うつくしい風景を所有したような茫洋とした広がりがある。河の流れのようにそれはある。もっとも、かれはそれを自分のものとは信じられない。だから「深く思ひ深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず」と考えるのである。風景は外にも内にもなく、深いセンスの内にこそある。
それはともかく、こういう認識を得るためにも、白居易を経由して自分の前のうつくしい風景の実在さえ疑うこの心理は、――われわれにはちょっと想像できない。つまり、言語や哲学をあるていど文字という巨大なものとして共有する中国に対する複雑感情を想像できなければ、もののあはれも何もかも理解できないのである。わたくしは、ある程度、もののあはれが、劣等感に支えられていたことを疑う。文字通り自分が「哀れ」だったにちがいないのだ。
これまでいろいろのいわゆる勝地に建っている別荘などを見ても、自分の気持ちにしっくりはまるようなものはこれと言って頭にとどまっていない。海岸は心騒がしく、山の中は物恐ろしい。立派な大廈高楼はどうも気楽そうに思われない。頼まれてもそういう所に住む気にはなれそうもない。しかしこの平板な野の森陰の小屋に日当たりのいい縁側なりヴェランダがあってそこに一年のうちの選ばれた数日を過ごすのはそんなに悪くはなさそうに思われた。
ついそんな田園詩の幻影に襲われたほどにきょうの夕日は美しいものであった。
――寺田寅彦「写生紀行」
風景が再発見されようとする文学には、劣等感を別の物に置き換える、停車場(ステエション)とかヴェランダとかいう物体が文章の中を乱舞する。