
その時二人の頭の上に下っている電灯がぱっと点いた。先刻取次に出た書生がそっと室の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸ろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉の色のだんだん濃くなって来るのを、最前から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬の一切を除けるようにしてその余りを残りなく啜った。そうしてそれを相図に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固より単簡であった。けれども細君の諾否だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
――漱石「明暗」
――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――
私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。
――梶井基次郎「檸檬」
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
――光太郎「レモン哀歌」
切り分けた果実の片方のように 今でもあなたは私の光
―― 米津玄師
木っ端微塵の基次郎、ただ置いておく光太郎、切り分ける現代の歌手、いちばん檸檬に寄り添っているのは誰なのだ。こうやって見てみると、レモンに何かを喩えて自分を演出している人たちより、普通にレモンを食べ物として扱っている漱石が一番気が狂っている気がする。