★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ウロボロスを生きる

2021-12-24 23:58:44 | 文学


ながめつつ思ふもかなし帰る雁 ゆくらんかたの夕暮の空

和歌の読み方でいつも難しいなと思うのは、「思うもかなし」が「ながめつつ」ある以上は雁と夕暮れの空のあとにくる感情であるにもかかわらず、その雁の風景が既に「思ふもかなし」に影響を受けざる得ないということである。ウロボロスの蛇みたいになっているのである。

考えてみりゃ、和歌を作っている時間は、見たり思ったりする時間とは別のものなのだから、ほんとはウロボロスではないとはいえるであろうが、――作者がウロボロスを生きているとは言えると思うのだ。

そこには、生を生き直す代わりに、生を再現しながら逃避する我々の創作の世界がある。よのなかには、作品の言葉を、作者と作品の文脈がつくる感情から切り離して平気な品性下劣な連中が沢山いる。古典和歌を生き直そうと思った実朝はそんなことも考えて、作品をもう一回生きようと思ったのかもしれない。

僕は石原の目を掠めるように、女の顔と岡田の顔とを見較べた。いつも薄紅に匀っている岡田の顔は、確に一入赤く染まった。そして彼は偶然帽を動かすらしく粧って、帽の庇に手を掛けた。女の顔は石のように凝っていた。そして美しく睜った目の底には、無限の残惜しさが含まれているようであった。
 この時石原の僕に答えた詞は、その響が耳に入っただけで、その意は心に通ぜなかった。多分岡田の外套が下ぶくれになっていて、円錐形に見える処から思い附いて、円錐の立方積と云うことを言い出したのだと、弁明したのであろう。
 石原も女を見ることは見たが、只美しい女だと思っただけで意に介せずにしまったらしかった。石原はまだ饒舌り続けている。「僕は君達に不動の秘訣を説いて聞かせたが、君達は修養が無いから、急場に臨んでそれを実行することが出来そうでなかった。そこで僕は君達の心を外へ転ぜさせる工夫をしたのだ。問題は何を出しても好かったのだが、今云ったようなわけで円錐の公式が出たのさ。とにかく僕の工夫は好かったね。君達は円錐の公式のお蔭で、unbefangen な態度を保って巡査の前を通過することが出来たのだ」
 三人は岩崎邸に附いて東へ曲る処に来た。一人乗の人力車が行き違うことの出来ぬ横町に這入るのだから、危険はもう全く無いと云っても好い。石原は岡田の側を離れて、案内者のように前に立った。僕は今一度振り返って見たが、もう女の姿は見えなかった。


――鷗外「雁」


鷗外になると、ウロボロスにしなくない意識が、円錐だとかニーチェだとかの言葉の鎗を使わせる。そのあとに情調が流れる。