世を捨てて身は無きものとおもへども 雪の降る日は寒くこそあれ
芭蕉が、このあとに「花のふる日は うかれこそすれ」とくっつけたことが知られているけれども、これはふざけているのではなく、「身は無きものと思っていた」が「寒かった」という、西行のナルシズムか自照かわからないところを、西行の寒がる姿を風景に埋め込むようなかんじ――、雪の降る日の寒さに感情に焦点化させることに成功しているのだと思う。実際、雪の降る日は出家していようといまいと寒いのだ。この寒さは、我々の心とは関係ないのである。寒さをこれでもかと経験した芭蕉であるから、それが分かったのであろうか。
これは伝承された西行の歌なので西行自身の歌かどうかはわからないのであろうが、伝統はこうやって個人が存在していようと居まいとかたちづくられるものである。これは時間の持続としての伝統ではなく、主観的風景なのであり、だからこそそこに時間が発生する。保田與重郎は「日本の橋」とか言って長々と書いたが、もうそのことだけを自覚していた。
何故神の加担する創造を信ずると云へないか。わが心に神の力によつて、民族の過去未来の一切絶対の貫流する雄大な詩人の瞬間を信じ得ないか。
――保田與重郎「文藝時評」
天皇制は、なまじ古事記や日本書紀のおかげでその時間性を失ったところがある。もっとも、その書きぶりにはもう主観的風景こそが伝統を創る事が意識されている節があると思う。だから、あとに続く者が少数派であっても、あいまいな起源をあいまいなまま、風景のまま受け継いでゆく。
そんな風にかんがえてゆくと、独歩や鷗外も日本浪曼派のために存在したかのように思われてくる。
私が長野の町の小さな病院で、熱のある患者の看病をしてゐる時でした。東京へんだと熱のある場合、病人の頭や胴をひやすには、きまつて、氷をつかひますね、ところが、信州では氷の袋はつかひますが、中に入れるのは、氷ではなくて、雪なのです。あの堅いかたい雪なのです。
一々氷屋をよばなくとも、冬であれば病院の庭にでも、どこの空地にでも、雪のないことは珍らしいからです。
小さな病院の庭が、この雪を掘る人々で、にぎはふ光景を、私も日にいくどか眺めました。
――津村信夫「雪」
こういう唯物的な風景は浪曼派の風景に対抗できない。