★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

放火と放下

2021-12-17 23:46:02 | 文学


けさ見れば山もかすみて 久方の天の原より春は来にけり

これは好きな歌である。霞は春の象徴だということはわかっているが、もっと天の原に繋がる大きなものの降下を感じさせる。この歌に於いては、春は季節ではなく、世の中のはじまりのようなものなのだと思う。久方の、も枕以上の象を持っているのではあるまいか。良経の新古今集冒頭の歌がなくてもよい歌だと思う。

むろん、こういう感性は修辞的なもので、落合陽一のいわゆる「デジタルネイチャー」(笑)みたいなものである。私くらいの狂人になると、ふだん文学のレトリックの問題ばかり考えているせいか、放火と放下は案外近いのではと思ってしまう。今日も大阪で放火事件があった。私の中で、中上健次の主人公の放火や、ハイデガーの放下、また仏教の放下がぐるぐるとまわりだす。

果たして、ネット上の炎上は、仏教の放下のような離脱的なものであろうか、それとも執着にみえて放置するようなものであろうか。

私共は次のことをなし得るのであります。すなわちそのこととは、私共は諸々の技術的な対象物を使用しますものの、それらを事柄に適わしく使用しつつもなお且同時に、それらに依って私共自身を塞がれないように保ち、何時でもそれらを放置する、ということであります。私共は諸々の技術的な対象物を、それらが使用されざるを得ない仕方で、使用することが出来ます。併し、それと同時に、私共はそれらの対象物を、最も内奥の点と本来の点とに於ては私共に些かも関わるところのない或るものとして、それ等自身の上に置き放つことが出来ます。

――ハイデガー「放下」


ハイデガーは核兵器の扱いについて言っているようなのだが、核兵器のように放置するではすまないのが普通のものであって、普通は燃やさなければならない。世界は狭いのである。しかし現代には燃えないものが多すぎる。我々のなかには毎日焚き火をする欲望が残っているので、スクラップアンドビルドや断捨離を超えてそれは言葉を燃やす方向に向かうのではあるまいか。そしてそれは常に、過剰な兵器の配備(overkill)に流れてしまうのであった。その流れに注目しているのが、中上や大江であった。わたくしとしては、どっちかというと、岩野ホウメイのような耽溺のような消尽をつねにしていることが重要であるような気がする。中上や大江は禁欲的過ぎる意味で我々に近い。