山桜今はの頃の花の枝に 夕べの雨の露ぞこぼるる
この歌は、金槐集では「山桜あだに散りにし花の枝に夕べの雨の露の残れる」とセットで、散ってしまった桜への恨みを「今は」、「あだに散る」と連続させて涙を誘っているのであろうが、――涙を誘われている人間が実際に泣いているとは限らないだけでなく、これ以上なにかが問いとして浮かんでくることはないように思われるのだ。
たしか瀬戸内晴美の文章に、下ネタはおもしろいが、テレビではそれを喋っている本人の顔が映っているのでだめだ、と書いてあった。たしかに我々の生にはそういうところがある。瀬戸内晴美の小説や出家はたいがいこういう問題に関わっている。瀬戸内晴美の文学は、鏡を覗き込むことににて常に問いが生じてくる不思議さから発している。鏡は、相手の男でもあったし出家した自分でもあった。同時にそれは自分自身でもある。常に彼女の前には自分が二つある。これは二重身とかピグマリオンとかの問題とは少し違う。それらは性が介在するとは限らないが、瀬戸内晴美の場合問題は性だからであった。