★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

幹と花

2021-12-19 21:07:40 | 文学


この寝ぬる朝明の風にかをるなり 軒端の梅の春の初花

「梅の花、風に匂ふといふことを、人々によませ侍りしついでに」と詞書にある。詞書というのは、なんとなく邪魔に感じられてくるものであるのだが、やっぱり詞書が排除されなかった事を軽視するわけにはいかないのであろう。詞書はいわば幹であり、歌が花なのである。幹がなければ、現実の養分を吸うことはありえない。

作品と現実との関係は、その作り手との関係に限らない。鑑賞する側も現実である。例えば、ウルトラマンやゴジラが公開される前に誠実な愛好者たちがその物語やなにやらを予想して胸を膨らませているのはいつものことで、わたくしも小学年低学年の頃だったか、新作ウルトラマン(80か?)の話を放映前に悪友たちに自慢げに妄想を語ってたもんだが、考えてみると、源氏物語やなにやらにもそういうことはあったのかもしれないのだ。その点、更級日記のお嬢さんは前半で、なにかひたすらまだみぬ源氏の本文をありがたがっている点があやしく、もしかしたら更級日記自体が、源氏の本文を読む前に妄想していた話自体なのかもしれない。

ヴィトゲンシュタインがどこかで、「どんなに洗練された”趣味でも、創造力とは無関係である」といっていたが、関係がない事もないのだ。弱い関係がそこにはあって、そのために創造力が生じる事もある。

しかし、この作品に対する弱い繋がりを、鑑賞者たちはしばしばその弱さを忘れる。それが作品でなく、何かの事件でもよい。その際に、勝手に当事者たる他人の気持ち想像する危険性を思い知りつつなお想像せざるを得ないのが社会ではあるのだが、――確かに大塚英志氏の言う「お気持ち」社会というのはそういう緊張感を解除してしまうわけである。かくしてハラスメントが止まらないわけだ。

インターネットの登場とともにハラスメントが激しくなったのは、作品や事件に対する距離が短くなり、上記の弱さを強さとして「見える化」したのに喜んだ人でなしが大量に出現したためである。