★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

時間と言葉

2021-12-10 23:30:39 | 文学


願はくは花のしたにて春死なむ その如月の望月の頃

釈迦入滅の頃に死にたいというのであろうが、もはや西行は現在に向けて表現しているのではない。過去の釈迦に向けてでも未来に向けてでもない。ここでは春と言われているが、時間は止まっている。永遠の今とは、現在に留まることではなく、時間から離脱してしまう事である。

我々は現在に向かってのみ書く必要はない。

今日、ゼミで柳田國男の戦時下の国語教育論を読んでいたが、彼の言っていることは戦時下に対しての認識としては正確ではなく、むしろ80年以上あとに当てはまっている。彼の書いていることは当時の視点にたつと浪漫主義なのだろうが、可能性としてのファクトみたいなものである。彼は、言葉による専制を嫌っていた。国語教育がその専制の原因となっているのは今も昔も問題なのだが、確かに程度の問題はある。しかし、その程度問題に余りに縛られるのはそれこそ言葉の専制なのである。

また、昼休み辺りに、長崎浩氏の「叛乱を解放する」をつい読みふけってしまったが、感想は以下略と言う他はない。学生運動のことを総括する人たちはなにか以下略みたいな感じで文章が終わっていく人が多く、闘争(逃走)続行とも佇立とも立ち往生とも総括へのためらいともいろいろいえるだろうけれども、妙に総括し終わるよりは遙かにましである。学生運動は、永遠の今ではなく、事件性という時間に縛られている。だから、回想するわけにはいかないのだ。誠実であろうとすれば。だから、彼らは以下略のような書き方をせざるを得ない。

カーニバルとか解放区といった時間を超える試みが、全共闘や三島由紀夫が話し合った事でもあったろうが、それが徒労に終わったとしても、――現在のように、計画書のようにリニアな人生はもはや人生ではなく、物質の時間であることを考えると、確かにまずは遙かにましであった。問題は、挫折した彼らが左翼勢力の最も脆弱な部分、物質の時間の維持(=平和主義)に生き方そのものでコミットしてしまった逆説である。彼らが三島由起夫が右翼として現れざるをえないのはそのせいであろう。

まずは必要なのは第一歩であり、言葉の専制からの逃走である。小林秀雄の「劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない」(「様々なる意匠」)といった平凡な常識を忘れると、宮★真司の「ケツ舐め」や「うんこがついたケツ舐め」などの罵倒は理解できないが、――認識しすぎると、つまり言葉の魔術に引っかかりすぎると、確かにウンコがカレーに見えることがある。いずれにせよ我々はときどきそういうセンスの狂いを起こすのである。