ゆきて見むと思ひしほどに散りにけり あやなの花や風立たぬまに
曾禰好忠の「おきて見むと思ひしほどに枯れにけり露よりけなる朝顔の花」をふまえているようであるが、もとの歌の方がなんだかドラマチックのような気がする。実朝の歌からはいつもどこかしら腰が重い視点を感じる。これは、現在ではないものを見ている視点ではあるだろうが、過去でもないように思われる。和歌の伝統とはそういう感じがする。
佐藤雄基氏の「卒業論文題目からみた近代歴史学の歩み」という論文を読んだ。東大国史の卒業論文の研究である。戦前の国史のエリートたちの卒論の一覧表がおもしろく、まだ近代史がほぼ禁じられていた時代相がみえる。近代とは歴史ではなかったのである。第一期生の明治38年提出・中村護君の「予が仮想したる日本神代史概説」なんか読みたいもんだが、歴史というのは「予の仮想したる」ものであった。歴史はある意味で「仮想」である。現在は、何によって仮想であるところの歴史となるのか。
無論、幸か不幸か、我々にとってこのあとの殲滅戦の経験が仮想であるところの歴史を生じさせたのである。
昨日、キア・ミルバーンの『ジェネレーション・レフト』を加速主義的スピードで読んだが、ここに書かれているZ世代の現在的視点は、また現在を歴史とは見ない戦前的視点であると思った。左翼のメランコリーは欲望の構造とはよくいったものだ。左翼も右翼も歴史の想起によってそれとなるのである。最近のオルタナなんとかの人たちはそれを忘れているのではなかろうか。
メランコリーとは何か。もっと深く絶望せよ、ともっと激しく自虐せよ、の違いは大きいが別物ではない。いずれにせよ、歴史がない点でそれは虚無なのである。
わたくしも、現在に生きるものとして「進撃の巨人」くらい読んどくかと思い、さっき読了したのであるが、――この作品は普通に傑作であった。「エヴァンゲリオン」にとっての歴史が、旧約的なものの抽象的反復であるのに対し、「進撃の巨人」のテーマは、人類の殺戮の歴史そのものである。「デビルマン」が、人間に対する怒りの余り、人間を神の戦いの埒外に置いて疎外してしまったのに対し、この作品は神と人間の戦いを人間のなかだけに閉じ込めて政治小説化した。そして、歴史の想起の不可能性が現在への政治的閉塞を生み出すこと、想起によってしか現在の赦しもない事態を示唆している。
日本の戦後文学は、あとからふりかえってみりゃ平家物語みたいなあつかいになるかもしれない。しかも代表作が「ガンダム」と「進撃の巨人」になってて。戦争大変だったんだねえ、宗教全盛の時代で大した作品はなくなったみたいだけど、みたいに言われてさ――。
私見では、「平家物語」も源氏と平家の現在にとらわれ、過去の想起には失敗しているところがある。それを宗教的に埋めてしまったからである。