尋ねつる宿は木の葉に埋もれて けぶりを立つる弘川の里
煙というのは文学の中では重要な形象であって、ほとんど人間の心を映しているようなところがある。雲よりも人為的なそれは、すぐ消えてゆくところからして我々そのもののように思われるのである。
考えてみると、たばこの煙なんかもその一種であったのかもしれない。我々の生活は、ずっと煙と一緒にあったのに、最近はそれがなくなった。なにかそれによって心が欠けている状態になっている気がする。
「そうじゃないの。先に出た煙が、あとからくる煙をまっていて、いっしょに空へ上がろうとすると、いじわるい風が吹いて、みんな、どこへかさらっていくのだよ。だって、同じ木から出た兄弟だろう。かわいそうじゃないか。」と、少年は、いいました。
お母さんは、しばらく、煙を見ていました。人間にたとえれば、手をとり合って、おぼつかなく、遠い道をいくようです。
「そう考えるのが、正しいのですよ。どこの兄弟も、やさしいお母さんのおなかから生まれて、おなじ乳をのんで、わけへだてなく育てられたのです。それを大きくなってから、すこしの損得で、兄弟げんかをしたり、たがいにゆききしないものがあれば、また中には、大恩のある、母親をきらって、よせつけないものがあるといいますから、世の中は、おそろしいところですね。」と、なにか深く感じて、こういった、お母さんの目には、光るものがありました。このとき、
「ぼくは、そんな人間に、ならないよ。」と、少年はお母さんのひざに、とびつきました。
――小川未明「煙と兄弟」
これは心ではなく観念にまでなった煙である。歌僧として生きた西行であろうが、観念との我々の繋がりは、西行の考えていた世界から遠いところで人間を縛るものであった。ゴジラなんか水爆という観念であるにもかかわらず、あれは形象としては煙なのである。もはや、あれを人の心だと思う人はあまりいないだろう。