★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

はねくその普遍性

2021-12-15 23:40:03 | 文学


萩踏んで膝を屈めて用を足し 萩のはねくそこれが初めて


これは、坂出に歌碑があると聞いている。まだ確かめていないが、いつか行ってみようと思う。思うが、恵那市にも同じ伝承がある。確かに西行ぐらいになると、全国各地でひりちらかし跳ね散らかしていたような気がしないでもない。空海が池を掘り散らかしていたようなものだ。つまり、だれでも糞をしたり池を掘ったりする事そのものが空海や西行に置き換わっているだけで、嘘をついているわけではないのだ。嘘だと言われれば、西行のように私たちも糞をする、で十分だ。これに比べると、下のような歌に感情移入するのは近代人という気がする。

風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへもしらぬわが思ひかな

これに対して、通俗といってしまう歌人の心は汚れていると小林秀雄は言う(『無常といふ事』、「西行」)のだが、小林の文章というのは悪口を描いてけしてゆくみたいなところがあり、いちど悪口を言う事が大事なのである。小林は、結局、悪口を消してゆくことの非普遍性にあまり気付かなかったのではなかろうか。ネット社会をみれば、西行のうんちを面白がって碑を建てたりしている広がり方の方が普遍性があることは明らかである。