★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

牛に牽かれて

2021-12-14 23:38:02 | 文学
三年へて折々さらす布引を けふ立ちこめていつかきてみん

縁語、掛詞のパレードのような歌であるが、小諸の釈尊寺、布引観音の歌なのである。吝嗇な婆さんを牛に布をひっかけさせて善光寺参りさせた伝承のところで、西行もこれから善光寺に行くのであろうか。でもまあしかし、もう一回帰ってきて布引観音に会いに来ても良さそうなものである。わたしは布引観音にあった事はないが、善光寺よりもなかなかの景観であって、浅間山まで見えるのである。洒落で遊んでいる人間はしばしば風景が見えなくなるものである。

よくかんがえてみると、牛に引かれて小諸から善光寺まで行った婆さんはものすごい根性であって、普通諦めるであろう。この根性はなにかレジスタンスのそれを思わせる。善光寺参りのイデオローグと婆さんの対決がこの話のテーマではなかろうか。

 丘の 南の なたね畑の 中で じつと まつて ゐた 仔牛の 頭に、やがて 小ちやく 生えて 來たのは、白鳥の 羽でも なく、鹿の 角でも なく、ふつうの 牛の まるい 角でした。仔牛が お父さん牛と お母さん牛の ところへ かへつて 來ると 二人の 親牛は 眼を しばたゝいて よろこびました。そして いひあひました。
「まあ、よかつた。でも 何て りつぱな 牛に なつた ことだらう。」


――新美南吉「仔牛」


父親は立派な角を、母親は天使の羽を望んだ。しかし子どもから生えてきたのは円い角であった。吝嗇のばあさんもこういう仔牛にあえば、一生仲良く暮らしたであろうに、善光寺に連行されたものだから、かわいそうな一生を送ったにちがいない。



12月だけど咲いた朝顔