学問への郷愁に似たものが、いつも私の心の片隅にくすぶっているのだ。「私の好きなもの」というある雑誌のアンケートに中野重治氏が「学問」と答えているのを見て、自分の気持を代って言われたような気がしたものだ。
――山本健吉「詩の自覚の歴史」
まだ読んでないし、読むかどうかも怪しいが『★めばわかるは当たり前?』という本がある。一瞬、著者名と似た名前の鷗外研究者がいるので、その人かと思ったが違った。さすが鷗外関係者がそれをいうと攻撃性がすごいかんじがするわけである。鷗外みたいなレベルにしてみりゃ、ほとんどの日本人が文章を読めないのはあたりまえである。そういえば、以前、落合監督が「見りゃわかんじゃん」みたいな言い方をして新聞記者を恐れさせていたが、専門家にしてみりゃ、みんなそんなもので、自明な事態というのは「読めば分かる」というより「見れば分かる」にちかいものである。
しかし、「見れば分かる」のは専門的な知見であるから、というよりも、それが存在の全体性というべきものだからである。
そのような、「見れば分かる」の範疇にはいろいろなものがあり、例えば、文学は社会の役に立つ、みたいな発言も、「見ればわかる」のたぐいであって、あえて口に出してはいけないものなのである。そうすると全体性を毀損する。すくなくともそれは営為の結果としての、問題の析出というかたちでしかも膨大な記述の形で提出され、それがまた更なる問題を生む。これはわれわれが社会とか国民を造ってしまうことよりも奧にあるプロセスで、単に不回避的で説明不能の「見りゃ分かる」ものなのである。
これ以前でとりあえず事態(国家や国民の何か)を便利にしようみたいな営為を『実学』といい、――ほんとのところ、税金投入への理由として自分のやってることの意義を説明する必要があるのはいってみりゃこれだけだ。確かに、不便はあまりよくないかもしれないからだ。かえって、上の見りゃ分かるみたいなものに説明をあえて求めてくる連中は、人間の生きる意味の不透明性を、生きる意味がない奴がいるという風に変換したい、優生思想の持ち主だ。こういうのは、全体性としての人間の発言ではない、何を言っても仕方がない。