★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

政党・愛護・タロウ

2019-07-14 23:24:53 | 思想


今更ながら思ったのであるが、戦後の共産党の変節も重要な問題なのであろうが、社会党の変節?をちゃんと分析することの方が、「勤労大衆」にとっては重要なことなのではなかろうか。だいたい、はじめから自民党と共産党の間で迷走していた社会党の方が自らに近いではないか。いま、野党の大半が「リベラル」といった妙なレッテルをつけられており、その際、共産党的なるものをシンボル操作のようなかたちで使用しながらその欺瞞を暴くことで快感を得ているような人々は多いわけであるが、それは実質社会党的なるものへの批判であるように思われる。ほとんどの人々にとって、共産党に自分を見出すのは難しいはずである。

1949年あたりの森戸・稲村論争を読んでいてそんなことを思った。

しかし、それにしても、共産党を含めて、「みんなが笑顔になれる」とか下手すると動物愛護にまで行っている人が散見されるのであるが、――それは、ほとんどナチスなのでは……、とも思うのである。ナチスと健康志向、動物愛護などの関係は研究で屡々指摘されているけれども、こいつはかなり本質的な問題だと思う。

このまえ「ウルトラマンタロウ」の一部を観たのであるが、蝉とか毛虫とかが巨大化して町を破壊するので、タロウが案の定飛び出して行くのであるが、昆虫に夢中な子ども達は、「タロウ頑張れー」「いや虫は殺さないデー」「タロウの馬鹿野郎」という感じで、まったく愛護精神が欠如している。昆虫の巨大化による破壊も、タロウの怪獣(虫)との格闘も面白そうだからやってるだけで、別に愛護しようとおもっているのではない。だからといって、虐めようとするのでもない。こんな具合がちょうど良かったのかもしれない。

動物愛護というのは、むろんナルシシズムの問題なので、――動物愛護と虐待とか殺処分とかは一続きのナルシスティックな精神の動きなのである。わたくしは、「みんなが笑顔」はファシズムへの傾斜があり得ると思う。「みんな」に堪えられずに、「笑顔のみんな」の強要に革命的に移行するのがファシズムだろうと思うからである。笑顔でなくても別にいいじゃねえか。

追記)「ウルトラマンタロウ」というのは、昔は馬鹿にしていた。「帰ってきたウルトラマン」とか「ウルトラマンエース」とかが、怪獣の造形の仕上げがやや甘くなっていくなかで「ウルトラセブン」風の陰鬱なドラマをやろうとして、ちょっと苦しい感じになっていたのを、おもいきってコメディタッチにしているところが成功の原因だったように思えました。音楽、役者、怪獣、脚本すべてが、「子どもの怪獣ごっこ」というレベルにきちんと揃っている。特に音楽がいい。



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