らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふほど、人のややみあふるほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ
髭黒さんは玉鬘を妻に出来た。しかしもう既に北の方がいて、子どももいる。うきうきと玉鬘の所におしゃれをしていこうとしていると、北の方に灰を投げられた。男前にした髭黒さん、そう上手くいかずに灰だらけに、と昔の読者もわらったのかもしれないが、――正直なところ、この場面もふくめて「源氏物語」にはどう反応していいのかわからん場面が多い。さすがである。それにくらべて、最近は、表現の意味を表現者が全く反対の意味にしていいみたいな風潮がある。「源氏物語」に限らず、だいたい世の中、どう反応してしいいのか分からんことばかりであるのだが、「これはこういう意味」とか決めたがるすっとこどっこいが威張り腐っている。
「例の御もののけの、人に疎ませむとするわざ」と、御前なる人びとも、いとほしう見たてまつる。
女房たちは北の方の剣幕を「御もののけ」のせいにしているが、いまなら何かアスペルガーだ鬱だなのどと言うのと一緒である。みんな北の方の感情の大きさから遁走したいのである。感情の世界は広大であるのだが、我々はそれをいつも狭く小さく見積もろうとする。
わたくしは、最近の政治やメディアにある現象は結局、そういうことのように思えるのである。第二次世界大戦のときに左翼が大衆の意識を読み違えていたことはよく批判されてきたけれども、その言い方にならえば、左翼でなくても多くの人々が米国や中国やソ連に対して読み違えていた。しかし、――本当は読み違えたのではなく、狭く小さく見積もりすぎたのだと思う。
感情の内実を数えあげる手間を省く論者すべてに戦争責任や戦後責任はあるとみなすべきである。
憂きことを思ひ騒げばさまざまに くゆる煙ぞいとど立ちそふ
髭黒さんは本当に「さまざま」思っていたのかどうか、わたくしは疑問である。