さて、土御門より東ざまに率て出だしまゐらせたまふ に、晴明が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびただしく、はたはたと打ちて、「帝王おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。まゐりて奏せむ。車に装束とうせよ」といふ声聞かせ かつがつまたひけむ、さりともあはれに思し召しけむかし。「且、式神一人内裏にまゐれ」と申しければ、目には見えぬものの戸をおしあけて、御後をや見まゐらせけむ、「ただ今これより過ぎさせおはしますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なり。
既に説にあるように、この晴明の言動は怪しい。クーデターの片棒を担いでいたのが奴だったのかもしれない。いま晴明に当たる者は誰なのかわからないが、それがある種の学者たちであるかもしれないのは誰しも思うことだ。安倍元首相の退陣と暗殺については、その因果律をきちんと辿ることは誰かがこれから試みるであろうが、コロナとこの病に対する「科学的説明」が、案外安倍元首相にとって、降ってわいた強敵だったことは確かである。晴明の観察する星の世界は、人間の感情的な綱引きの世界に式神のような、目に見えない暴力的なものをもたらす。いまだってそうだ。安倍元首相だけでなく、人文学の学者達のいくらかは、その「科学」に怯えただけではなく、自分の考えてみなかったような正論を発明したりしていた。現在の科学者達がその役割をはたすつもりが必ずしもないように、より政治的な役割を担っていたであろう安倍晴明だってどこまで自覚があったかどうかはわからない。しかし、実際のクーデターの因果とはべつの不可視な因果が政治を決定づけることはあると思う。
ほんとは、パワハラという考え方だって、倫理学的に変形されているが力学と精神医学の結合という「科学」であって、権力を見えるものだと短絡する幼稚さを導きかねない。実際に何が興っているかと言えば、――所謂パワハラにみえるようなパワハラに敏感になっているうちに、上司でないようなイジワルおじさんやおばさん、すごく上の上司みたいなもののいじめが過激になっている現実である。良くも悪くも上と下への倫理のつっかえ棒になっていた中間管理職的な存在の弱体化は、「科学的なモラル」によってなされてしまう。かくして政治家と公務員、別働隊的経営者と労働者の関係は、ハラスメントどころではない単なる支配と被支配関係となりはてる。
というわけで、遺された道は、大鏡の語り手のやってるような愚痴の表出である。――八〇年代の半ばのいわゆる「ニューアカ」のころ、共産党が出した『投降主義者の観念論史観』という書物があった。いまや、投降を投稿と言い換えても意味は通じるといへよう。