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花山寺におはしまし着きて、御髪下ろさせ給ひてのちにぞ、粟田殿は、「まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、必ず参り侍らむ。」と申し給ひければ、「我をば謀るなりけり。」とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれに悲しきことなりな。日ごろ、よく、「御弟子にて候はむ。」と契りて、すかし申し給ひけむが恐ろしさよ。東三条殿は、「もしさることやし給ふ。」と危ふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺よりぞうち出で参りける。寺などにては、「もし、おして人などやなし奉る。」とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける。
いやな場面である。陰謀をめぐらすカスは論外であるが、天皇もなんだかすぐぺーぺー泣きおって根性がなさ過ぎる。気がついたら、清和源氏のヤクザ共に囲まれており、たしかに恐ろしい。ゴジラは別に恐ろしくはないが、憲兵隊が恐ろしいのと同じである。われわれにとって、天皇が罠に落ちてゆくことすらエンターテインメントの一部なのであって、結局現実には、このように消費財のような扱われ方をされてしまう人間がたくさんいることを作品そのものが示しているような気がする。源氏物語もそうであるが、天皇の「神聖」さは、こういう消費される人間の象徴でもあるのであろう。
消費というと、谷崎の「刺青」なんかもそれを示唆する作品のひとつであるきがする。三島由紀夫はたしか谷崎の「刺青」を、あとは技巧などを頑張れば良い「永久機関」の発明だとか言っていたと思うが、これはうまく言いすぎの例だと思う。うまく言えばイイというものではない。こんなことを言うから、おなじ永久機関である天皇を別の形でほめなきゃいけない羽目に陥るのである。