★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2024、大惨事のスタート

2024-01-03 02:29:27 | 文学


おほかた、この九条殿、いとただ人ににはおはしまさぬにや、思しめし寄る行く末のことなども、かなはぬはなくぞおはしましける。口惜しかりけることは、まだいと若くおはしましける時、
「夢に、朱雀門の前に、左右の足を西東の大宮にさしやりて、北向きにて内裏を抱きて立てりとなむ見えつる。」
と仰せられけるを、御前になまさかしき女房の候ひけるが、
「いかに御股痛くおはしましつらむ。」
と申したりけるに、御夢違ひて、かく子孫は栄えさせ給へど、摂政・関白、えしおはしまさずなりにしなり。
また、御末に、思はずなることのうち交じり、帥殿の御ことなども、かれが違ひたるゆゑに侍るめり。


初夢というのは上の師輔のエピソード(「大鏡」)にあるように、何を見るかではなくそれを誰に話すかどう扱うかにかかっている。これは所謂人生の夢にもおなじことがいえるのである。で、左右の足を西東の大宮通りまでふんばって北向きになって皇居を抱え込んでいる夢に対して、「どんだけオマタがいたくていらっしゃるんですか」と、つい言ってしまった人はだめなのかというとそういうわけでもない気もするのである。失礼で下品なだけで。というわけで、現代人のわたくしが、人の夢を語る資格のない人間になってしまっていることは明らかだ。こういう言ってやった的な軽口こそ、世の中の夢という夢をつぶしてしまうのだ。

而して、さあ軽くツっ込んでくれと言わんばかりの嘘もいけない。紅白の司会の一人が音楽で平和みたいな、絶対に彼自身は思ってもみないようなことを言っていたけれども、彼もお笑い芸人的な人である。わたくしもつい、歌で平和がやってくるというなら、紅白の時間に、ショスタコービチの13番と「ユダヤの民俗詩から」あたりを流して、政治と文学と音楽について議論した方がましだと思ってしまったが、それがツッコミである以上、意味はない。自分でちゃんと議論もしない人間に限ってこういうことを言ってしまうのは、意見がコミュニケーションの反応になってしまっているからである。

地震や旅客機の大爆発事故などが起きて、正月ってなんだっけと思わざるをえない。そして、人間いろんなことを思うわけだが、それを認めるか認めないかみたいなところでうろうろしているべきではない。その彷徨は是非を問う形でもなく、うえの反応のやりとりに過ぎない。われわれのそのいろんな考えは地獄にも極楽にもいろんな風に通じているに過ぎないのである。わたしも日本もとっくに天からは見放されている、というのはそういうことだ。我々の風土は、そんな風に思わざるをあないことばかり経験してきたのである。だから地獄と極楽こそが現世の中にあり、あっちこっちへと善悪の路が縦横に開けている宗教の方が性に合っている。そこには天や当為の命令はない。

人生は地獄よりも地獄的である(芥川龍之介『侏儒の言葉』)

地震や感染症によって文化が変わるみたいな研究はさいきんよくあるのだが、たしかに我々が過去に帰るのは文献によってではなく昔と同じ体験を強制されることで、文化それ自体が人類学的というか文明論的な自覚によって変容して行っている感じはある。私もそういう自覚があるような気がする。

わたしが経験したいちばん大きい地震は長野県西部地震だが、わたくしはその時中学生で、まわりの同級生とかの様子見ても、結構長い期間、妙な躁状態だった気がする。最近は心のケアとか簡単に言うけど、先生方はこういう微妙な変化に対応して通常の活動を行わねばならず、ケアみたいな感じではどことなく的外れになるのは当然である。危機に際して人間には独特なナルシシズムが生じ、自分を反省しづらいような雰囲気が内側から沸いて出てくる。戦争責任の議論の底にもそういうものを扱う厄介さがある。それをヤスパースとか花★清輝のように、形而上学的な罪を想定したり、善悪のグラデーションを想定してもあまり意味はなかったのかも知れない。

夕方、ドイツの研究者から「地震大丈夫か災害の後とかは全体主義に気をつけろ」みたいなメールが来ており、お前の国に言われたくないという感じがするが一瞬世界の研究者も優しくなる。この優しさや私の感情にもナルシシズムがあるのだ。地震の時とかにでてくる理系の大学教授ってなんか内容以上にキャラが癒やしだよね、とか屡々我々が感じるのもそれかもしれない。

しかし、どうなのであろう。そこらの石が転がったり、ペンが折れたりしただけで、――我々はなにかのきっかけで、自分の人生がすべて無意味に感じられることだってあるわけだが、災害に対してはそのナルシシズムが災害への対処行動と一体化する人も多く、我々はやはり自己治療としての全体主義者にもなりうると同時に、世の中に自分が開かれることだってあるわけである。


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