浅き名を言ひ流しける河口はいかが漏らしし関の荒垣
とのたまふさま、いとこめきたり。
漏りにける岫田の関を河口の浅きにのみはおほせざらなむ
年月の積もりも、いとわりなくて悩ましきに、ものおぼえず
「反社会的勢力」って何だろう……と考えながら、「藤裏葉」を読む。ウィキペディアによると、反社会的勢力とは、「暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団又は個人」だそうである。問題は社会ではなく経済なのであった。この場面では、弁の少将がうたった催馬楽「葦垣」(男が女を連れ出そうとしたが誰かに告げ口されて失敗する、みたいな内容)に導かれて、夕霧と雲居雁は贈答しあうが、その内容よりも、雲居雁の「いとこめきたり」という様子、夕霧の「年月の積もりも、いとわりなくて悩ましきに、ものおぼえず」という体たらくが場面を仕切っている。歌よりも人物の様子が音楽のように流れている。資本主義は、その外部を必要とし、――息もつかせず、資本主義の外部を取りこんでゆくのであるが、暴力団やヤクザも例に漏れず、むしろ資本主義社会の中で機能するようになってきたのである。そういえば、ヤクザなひとたちの発生もそもそも資本主義と関係があるという説があるけれども、そうかもしれない。資本主義によって生まれたものが外部に成り同時に内部に取り込まれる。だいたい商売というのは、もともと不公平な関係を隠蔽する側面が本質的にあるので、決まりをつくりながら無理矢理線引きをつくっている訳であろう。言うまでもないが、商売が大げさな展開をするためには、契約書なんかがない労働を大量にかかえる必要があるのである。ヤクザが大きな勢力となるときにそういうことが起こっているのは、多くの証言があるが、国家や会社でも本質的に似たようなことが起こっている。
夕霧と雲居雁が結婚できたのは、彼らが恋していたからではない。父親の源氏と頭中将があれこれ考えて演出したからだ。
明かし果てでぞ出でたまふ。 ねくたれの御朝顔、見るかひありかし
夕霧の美しい寝起きの顔は、いまや権力の頂点に立とうとする源氏に支えられている。今日は、芸人二人が契約している会社のことをあれこれ言う場面があった。考えてみると、源氏たちは自分で歌を詠んだり楽器を演奏したりして自分たちを喜ばす手段をもっている。そもそも、娯楽を金で買ってどうにかしようとする我々の世の中がおかしいのかもしれない。金のために幇間じみたことをしなければならないのは、そこそこ有名な芸人が反社会的勢力に対してするだけではなく、会社ぐるみにでもっとでかい権力に対してやっていたことであり、――我々だって似たような幇間になって立ち回っているではないか。
問題は、「暴力、威力と詐欺的手法」を使う相手に対する「恐怖」である。これは我々の社会の外部ではなくて、我々の行動の源泉である。