寒くて何も思い浮かばない。マイナス10度近辺ではいつものアイロニーが隘路におちいる。……ぐらいしか思いつかない。
しかしこれが四国になれた体と頭のせいだと言い切れるであろうか。ドストエフスキーの世界だって本当に頭の良さと言い切れるであろうか。どこか動かなくなっている思考だからこそああなる可能性だって考えておく必要がある。われわれは寒いからこそ、あるいは暑すぎるからこそ、実存的になったり神について考えたりするという思考の枠組みを疑うべきである。
日本人?が我慢というのはまちがって伝えられてしまった道徳なんじゃないかなとおもう。ほんとは、何かあってもぼーっと真剣に考えることが我慢の原型だったのに、寒さに耐えるみたいな意味になってしまったのではないか。
環境の苛烈さ、貧しさはやはり貧しさを生む可能性がある。コロナ籠りでコミュ力笑がおちてる若者を問題にしているうちに、実際はもっとコミュ力も何もかも落ち込みが加速している爺さんばあさんのことも考えておくべきで、今回の年末年始はけっこう危険なイベントである。
かわいい文化というのも孤独感を深める効果があることを軽視すべきでない。我々人間は別にかわいくはない。よくみれば汚い醜い物体である。これを表現しようと思えば、熱帯の人々がむかしつくったおどろおどろしい人形のほうが正しいのかもしれない。我々のかわいさは欠損からくる心理的混乱かもしれない。
青木淳悟氏の『学校の近くの家』はすごい作品だったが、よくあるアスペルガー的な認識の洪水みたいなものを示すような外部に立って、つまり通俗的客観性みたいなものを破壊しようとしていた。こういうやり方は貧しくて寒くて乱暴な熱量で物事をやっつけることとはだいぶ違うことだ。いまのよのなか、政治家や商人までもがだめな小学校の先生じみている。子供のさまざまな意味での貧しさを、可能性や面白さに換言して熱量に昇華してしまうようなやり方がまずいのであろうと思う。