吉琛佳氏の論文を読みながら、サテライトセミナーとかの準備をする。
最近、ゲルギエフとかクルレンツィスとかが、ショスタコービチの7番の例のボレロのパロディの所で、これ見よがしに加速するのが怖い。ここの部分は本当に加速して表現するべきところであろうか。ファシストの行進、あるいはソ連軍の行進の突撃と破壊の場面とも言われるこの場面であるが、――破壊は本当に加速が必要であろうか。フルトベングラーの四〇年代の加速はすごいが、彼のように、ベートーベンでもシューベルトでもブルックナーでもシュトラウスでも最後は加速するのは潔かった。自分の曲ではあんまり加速していないのはどうしてであろう……
ショスタコービチも、サモスード?か誰かと演奏したピアノ協奏曲第一番なんかではすごい加速をしてて、オーケストラもついてこれず、ときどき自分の指もついてこれなかった。
「僕は十分速くあったろうか」と述べたのは81年の浅田彰であるが、氏もおそらく速くありすぎて自分の指がついて行かないタイプである。こういう人は内面的なので決してトランプみたいにはならない。
ミチコ・カクタニの「真実の終わり」で紹介されていたが、トランプの参謀だったバノンは自分がレーニン主義者であると語ったことがあるという。白井総氏がレーニンで学位をとり、古本屋でわたくしがレーニン全集を買い込んだ頃、アメリカでもそんな奴がいて、破壊欲に燃えて機会を窺っていたのだ。
わたくしは、レーニン全集を読みかけたままどちらかというと、寝転んでサボっていたので、まだまだ加速しない。代わりに加齢が来て、ますます遅くなっている気がしてならない。