今やっている大河ドラマ『いだてん』はオリンピックの話で、とりあえず、昨今のオリンピック騒ぎは、that's dumb としかいいようがないので、それだけで見る気が全く起こらず、国策ドラマ勝手にやってろよ、みたいな気分であった。
といっても、半公務員的の性で、はじめの数回は見てみたのだが、有名な演技者が沢山で過ぎてて目移りするし、金栗四三がどうなったかは分かっていたし、彼が東京師範に入っていかにも東京師範的な文化になじんで行くのをみて、母校のあれを見せつけられた気がして、いやな気分になり、――しかも嘉納治五郎は役所広司がやってるのになにか馬鹿っぽい感じで、――どう考えても宮藤官九郎の意図的なあれなのであるが、実にいやなかんじであった。
というわけで、一ヶ月ほど、裏番組の「ぽつんと一軒家」にいってしまったことを後悔している。
なぜかというと、二ヶ月ほど撮りためた録画をみてみたら、けっこう面白くなっていたからである。
正直なところ、黒島結菜さんがでてきてわたくしはおもしろくなった――のであるが、彼女が女子選手の出場をかけて教室に立てこもる場面はおもしろかった。もう一言、天皇かプロレタリアートと言ってくれれば共闘できるのに、言ってくれないからいつまでたっても視聴率があがらないんだ。それだけさ。――それはともかく、ビートたけしや何やらが、「オリンピック噺」というかたちで語って行くその手法が、どうも民に面白さが伝わらない原因のひとつであろう。民は、平家物語をチャンバラとして見ることになれており、琵琶法師の語りとしてはもう聞けなくなっている体たらくである。宮藤氏は、それが「噺」であることにぎりぎりの批評性をかけようとしている。太宰の「新釈諸国噺」みたいなものであろう。それでなければ、オリンピックみたいな悲惨な出来事をまじめにドラマに出来るかという……
もう既に言われていることであろうが、人見絹枝のエピソードはなかなかの出来であった。わたくしは、人見絹枝が文学少女なので、遠征中とか死の床で作った作品をからめてやるのかとくだらない空想をしていたが、最後、彼女はひたすら走って死んでいったように描かれていた。確かにそうした方が良かった。このあと、5・15で犬養毅が殺されたり、新聞が堕落していったりというエピソードがあり、それが文学的に粉飾されるのを防いでいたように思われないではない。
次男の蟹は小説家になった。勿論小説家のことだから、女に惚れるほかは何もしない。ただ父蟹の一生を例に、善は悪の異名であるなどと、好い加減な皮肉を並べている。三男の蟹は愚物だったから、蟹よりほかのものになれなかった。それが横這いに歩いていると、握り飯が一つ落ちていた。握り飯は彼の好物だった。彼は大きい鋏の先にこの獲物を拾い上げた。すると高い柿の木の梢に虱を取っていた猿が一匹、――その先は話す必要はあるまい。
――芥川龍之介「猿蟹合戦」
三男の蟹は蟹より他のものになれなかった。そして、日本の大衆のたいていは蟹であると芥川龍之介は言う。しかし考えてみると、次男(小説家)も蟹には変わりがないのであった。しかし、人見絹枝は蟹ではなく「韋駄天」であり、悪い鬼を走ってつかまえるのである。蟹よりも小説家よりも、韋駄天を上位に置くのが今作の宮藤官九郎であった。
「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。
――太宰治「走れメロス」
のみならず、宮藤官九郎は、男を見限っているのであろう。韋駄天は女性にしかいない。前畑ガンバレ。
能年さんいつでるの?