昨日は、中井久夫を読み始めたら面白くなっちゃってずっと読んでいたのだが、今日は資料の整理をしていたら、公職追放された哲学者=紀平正美の論文のコピーなどがでてきて、線が引いてあるところを見ると、わたくしが全然当該箇所を理解せずに読んでたことが分かって申し訳なかったので、ちょっと紀平の本を二三冊本棚から引っ張ってきて読んでみた。
安部磯雄との共著『産児制限の可否』(講演録)なんかを読むと、確かに下品なろくでもない奴であることは明白だとしても、紀平の思想は、いまの保守おやじよりもよっぽどしっかりしており、産めよ増やせよの思想のバックには、こういう奴がいて、素人を煙に巻いていたことが推察される。もっとも、びっくりするのは、――関東大震災のときに、「妊婦の悲惨なむごたらしい屍体をみた時ほど妙に美的に感じたことはなかつた」と言い、そのことを以て、女は子どもを産んでこそ個人中心主義から脱するとか、更には禅宗の公案まで出してきて、自我非我の区別を超えるとか言いだし、ゲーテも女性が我々を導くとか言っているとかなんとか説明しはじめる……という――、超展開を見せることだ。子どもは自我ではないが非我でもない、大便だってそうでしょ、非我だからといって腹を切って出そうとおもわんでしょうがとか――、もう意味が分からない。紀平曰く、子どもを作ろうと思って「やる」やつはいないでしょ、「刹那刹那の満足」の上に神の意志によって産まれてくるので、子どもは邪魔くさいものであっても「徳の実現」としてあるのである、と。その徳とはなんぞやというのがよく分からんところではあるが、
夫婦で一緒に風呂へはひりたいといふ気分の起ることもありませう。けれども二十年も三十年もたつてから、尚ほ一緒に風呂へはひらなければならないかといふやうなことは、如何に気の毒な夫婦生活であるか、と私はかはいさうに感じました。
というような変な例が出てきてますますよく分からなくなる。紀平の思想にヘーゲルの影響をみるのは容易であろうが、このジェットコースターのような荒唐無稽な感じ、おやじの「うししし」という笑いとともにある如きこの妙な弁論については、あまりむやみに馬鹿にしない方がいいというのがわたくしの見解である。「日本への随順」とか『なるほどの論理学』とか『知と行』みたいな固い哲学書でも、この調子は所々にある。「なるほど」の説明なんか、ほんと頭大丈夫かと笑いそうになるのだが、我々の社会で「なるほど」すなわち紀平の言う「「うなづき」の完成」が、「承諾した以上は、直ちにそのことを行ずる作用となる」という説明は、笑ってすまされないところがある。いま話題になっている、命令を忖度と言い換えてわかり合っている我々とか、失礼な態度をとっているのに挨拶だけ妙ににこやかなすっとこどっこいな学生とかを想起すれば、紀平が言うように、我々の社会とは、権利でも義務でもない「つとめ」の社会なのだと思わざるを得ない。なぜなら、神と人との区別がない我々の社会では、もの・ことからの照り返しみたいなものによって我々のなかには力が宿るからであると、紀平は言っている。(ちょっと言い換えすぎか……)丸山眞男の政治学など、マルクスがヘーゲルを転倒させたように、紀平の認識をそっくり批判的に転倒させればできあがる気がするくらいだ。違うか……。もしかしたら、紀平氏は惜しかったのではなかろうか?
とはいえ、やはり全体的に「調子こいてんじゃねえよ」という感想を持った。もう少し調子こかなければ……
中井久夫が、受験戦争で病気になってゆく青少年たちを見ながら、我々の社会が次の生き方を見つけられていないと繰り返すので、ここ数日、わたくしもそういうことを考えながら、紀平を読んでみたのであった。
附記)9月になって、伊東祐吏氏の『丸山眞男の敗北』を読んだら、紀平と丸山の話が出てきた。伊東氏は、紀平の認識と丸山の認識が日本思想の「古層」の実体化?みたいな発想で全く一致しているとみている。そうかもしれない。むろん、丸山も伊東氏も問題の入口に立っているということだろう。